Muroto Voice

SDGsとの距離をうめる室戸の声

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自然災害を日常に、隆起する大地が生み出す自然の恩恵を受け続けてきた人々。
大地と結びつく暮らしのなかで染み付いたその人の当たり前を声にして届ける。この土地で暮らし続けるために。
SDGsとあなたの距離を埋めるのは、室戸の声かもしれない。

#10 待つ網

 高知県室戸市では「大敷(おおしき)」という大型の定置網漁が4地区でおこなわれている。室戸岬町の三津地区で大敷が始まったのは1901年。「村張り」とよばれる集落の住民が株を持つ経営が長年続いてきた。2021年、集落による経営が維持できなくなる。変わりつづける海で、新たな体制へ移行した三津大敷の漁師たちのいまを追った。

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森先生プロフィール

森 明香

高知大学 地域協働学部
助教

“待ち”の漁法である定置網は、自然に育ち沿岸へ来遊する魚を捕獲する、沿岸漁業を支えてきた営みである。かつては全国で主流の漁法だったが、戦後、魚群探知機や高速漁船の普及による近代化の波の中で、生産性の面から斜陽と見なされた時代もあった。しかし資源保全や省エネルギーの観点から、近年その持続性が再評価されている。自然条件への依存度が高いからこそ、各地の漁師たちは海況や地形を読み、地域ごとに最適な網場や組織を形成してきた。その歩みは、自然環境と社会環境の変化に応答し続ける、地域の知の蓄積とも言えるだろう。

『待つ網』は、1901年に集落民の共同出資で始まった三津大敷の2025年を記録したドキュメンタリー作品だ。集落経営の維持が難しくなり企業グループへ参入するという大きな転換、網の全面更新やクレーンによる初の「網入れ」など、時代の変化を象徴する出来事が映し出される。その一方で、先人が見出した網場を守り、年長者が若い漁師へ技術や地域の記憶を伝える姿など、世代を超えて継承される実践知の存在も丁寧に捉えている。

サンゴの死滅や漁業資源の減少など“海の異変”が語られる時代にあって、本作は、自然と向き合いながら地域で営みを続ける人々の姿を静かに映し出す。私自身、学生とともに室戸にお邪魔する中で、椎名大敷に乗船する機会を得た。試写会では監督から、あえて直接的な因果で結ばない編集や、動物や道具/モノへの着目、異なる時間が併存する構成を意識したと伺った。当初は容易に理解できなかったが、複数回鑑賞をするうちに、短期的な変化と長期的な持続が交差する営みの重層性が浮かび上がってきた。

変わるものと変わらないもの。その両方を抱えながら歩む三津大敷の現在を捉えた本作は、身近な自然と私たち人間がどう関係を結び続けるのか、改めて考える機会を与えてくれるように思う。

笹村さんプロフィール

笹村 柊介

高知県 室戸漁業指導所
技師

「待つ網」は、室戸で100年以上にわたり営まれてきた大型定置網漁業「大敷」の1年を追い、自然と向き合い続けてきた漁業の本質を描き出した作品である。荒天や海況の変化に左右されながら操業に臨む現場の様子からは、迫力と同時に、経験に裏打ちされた判断力や仲間同士の連携といった、この漁業を支えてきた知恵の積み重ねが感じられた。

定置網漁業は「待つ漁」と表現されるが、本映像からは、単に魚を待つのではなく、海の変化を読み取り、最善の選択を重ねていく能動的な営みであることが伝わってくる。敷き込みや日々の操業を丁寧に映し出すことで、ひとつひとつの作業が長年の経験と責任の上に成り立っていることが実感できた。

また、かつて集落による共同経営で成り立ってきた三津大敷が、時代の変化の中で新たな体制へと移行しながら操業を続けている点も印象的である。映像の中では、県外から室戸に移り住んだ若い世代が現場に加わり、操業の一端を担いながら経験を積んでいく姿が描かれている。世代や出身地を越えて技術と役割が受け継がれていることは、この漁業が現在進行形で継承されていることを示しているように感じた。

さらに、随所に挿入されるシットロト踊りや祠の描写は、信仰や祈りが漁業と切り離されることなく続いてきた室戸の姿を象徴的に示している。豊漁を願い、魚を供養する文化が今も大切にされていることは、自然への畏敬の念を基盤として漁業が営まれてきたことを改めて認識させるものであった。

こうした文化的背景を含めて記録した本作品は、漁業の現場や人々の営みへの理解を深めるとともに、室戸の海が育んできた地域資源としての価値をあらためて見つめ直す契機となるものである。漁業とともに積み重ねられてきた時間や思いが、次の世代へとつながっていくことを感じさせる映像であった。

#09 つづくもの -五所神社に集まる人たち-

 立派な2本杉がそびえ立つ五所神社の氏子が住むのは、お宮がある吉良川町西ノ川流域から、峠を超えた東ノ川流域まで広い範囲に及ぶ。かつて盛大に行われた秋祭りは、人口の減少に合わせて形を変えながら継続してきた。各家で皿鉢料理を囲んだおきゃくや、冬の冷たい川で身体を清めた禊(みそぎ)も今は行われていない。酒に酔って太鼓を叩いた唄の歌詞も忘れさられている。それでも地域で暮らす1人1人の生活にとって「つづくもの」とは。

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サナエさんプロフィール

仙頭 サナエ

日南・大平集落活動センター ひなたぼっこ

私たちの氏神さまである五所神社のことを2年間かけて調べてくださり、映像で見せていただきました。私は、日南に嫁いで60年近くなります。五所神社へは、2人の子どものお宮参り以来、行ってないような気がします。神社の用事は、ほとんど主人が行ってましたので、あまり気にしていませんでした。映像を通じて改めて五所神社の歴史や風景に触れ、遠い昔の記憶がよみがえってきました。

私の故郷は奈半利川を40キロも登った地域です。子どものころ、かなり山の上にある氏神さまのお祭りに行った思い出があります。お菓子がもらえることをワクワクしながら姉と行きました。今は生まれた地区に住む人もいません。あの神社はいま、どうなっているだろう...。

五所神社は、日南から山を越えた釣の口集落の先にあります。山越えの道は、昔は獣道でした。同い年の子を持つ友人と子どもを背負って、険しい道を歩いてお宮まいりに行きました。今は車でいけますが、急勾配のため私の齢(とし)ではあぶなっかしいです。

五所神社は日南がある東ノ川地区と神社がある西ノ川地区で協力して守っていますが、神社側の地区の人口も本当に少なくなっているようですし、日南の人口も年々減ってきています。この神社を守って歴史を残したいと思う一方で、人口が減り限界集落になりつつある不安も現実です。映像を見て、そんなことを改めて実感しました。五所神社を守っていける地区でありたいと願うばかりです。

新名先生プロフィール

新名 阿津子

高知大学 人文社会学部
准教授

「つづくもの -五所神社に集まる人たち-」は、室戸市吉良川町にある五所神社の神祭の2023年と2024年の姿を描いたものである。五所神社は西ノ川が大きく蛇行した古矢(ふるや)の山裾の高台に位置する。五所神社の氏子は、この西ノ川と、山を挟んで反対側に流れる東ノ川が作り出した谷間の集落に住んでおり、それぞれの集落から選ばれた総代と当家が中心となって神祭を継承している。

五所神社の神祭に、祭り特有の熱気はない。掃除をし、幟旗を立て、お供物を用意し、祈りを捧げ、奉納料理をいただく。唄や踊りを継承する祭りを「動」の祭りとするならば、こちらは「静」の祭りである。以前は、太鼓をたたき、唄を歌い、夜店も出る賑やかな祭りだったそうだが、そういった熱気はなく、準備と祈りと語り合いの静かな祭りへと変化した。

作品の中で、暮らしが語られる場面が出てくる。特に印象的だったのは、自然との関係である。サルとの縄張り争い、ご馳走といえばクジラ肉だったこと、ウミガメは臭いが強烈であること、それらが美味しいのか不味いのかということなどが語られ、海のイメージが強い室戸において、山というまた違った表情が、遠枝氏の映像と共に立体的に浮かび上がってくる。

作品中、神祭をする理由について尋ねられた時、仙頭氏が「続いてきたものには意味がある。続けていきたい」と答える場面が出てくる。変化する社会に対し、「変わらぬ営み」の大切さと、それを継承する責任感や使命感が映し出されていた。

私自身、郊外住宅団地で生まれ育ったため、継承する地域文化を持たず、生まれ育った場所に対する責任感や使命感も希薄である。一方で、五所神社の神祭は、その形は変われども、「変わらぬ営み」として存在し、場所に対する責任感や使命感が育まれ、人と地域の強いつながりを生み出している。この人と地域をつなぐ「変わらぬ営み」が、「住み続けられるまちづくり」にとって必要不可欠なものであるように思う。

直人さんプロフィール

中岡 直人

日南・大平集落活動センターひなたぼっこ
集落支援員

神社の参道を侵食せんとばかりに両脇から巨木の杉が成長し、祭りの参列者が「通りにくくなったなぁ…」とつぶやく。現代を象徴するような印象的なシーンだった。人がいなくなり学校がなくなる時代の流れには逆らえない。しかし、写真や映像に残すことはできる。学校教育や集落活動センターなどで、それらを振り返る場が必要だと感じた。

奉納するお供え物の本来の形を宮司さんから教わるシーンでは、私自身も地元の伝統芸能に携わっており、伝統・文化の継承の難しさを肌身に感じる。人が多かった時代は、組織で運営ができ“他人ごと”にして任せっきりにしても問題なかった。高齢化が進む地域では、人手が限られ、やがて「やらなければいけない」と“自分ごと”になる。まだまだ自分たちでできるからと助けを借りずにいると、いつかさらなる人口減少とともに消え去っていく。数々の伝統や文化の灯が消えつつあることに切ない気持ちになる。

私は伝統芸能に携わる当事者として、“自分ごと”に捉える第一線の人たちの年齢層を下げていかなければと感じてきた。受け継がれてきたものを伝え、場合によっては簡素・縮小化しつつ、オリジナリティーを出すことで新たな文化がつくられていく。母数が少ない若手への継承によって人手不足になることは免れられない。年長者にはサポートにまわってもらい、見守ってもらう。“他人ごと”が“自分ごと”になり、やがて“任せること”、そして“見守ること”になる。これらがめぐるような地域になればと思う。これまで配信された「Muroto Voice」の神祭シリーズは、現在の日本の課題などが映し出されるだけでなく、課題へ向き合う糸口になる作品となっている。より多くの人に観てもらいたい。

#08 尾崎太刀踊り

 コロナ禍前の2019年、「太刀踊り」は室戸市内の5地区で奉納されていた。尾崎はその元祖だと言われる。2020年、新型コロナの感染拡大により、緊急事態宣言が発出。2023年に5類感染症に移行するまで、全国の伝統行事で自粛が続いた。室戸市内でも、多くの伝統芸能の中止判断がなされるなか、ここ尾崎地区の太刀踊りは規模を縮小し、参列を関係者に限定して奉納を続けてきた。自粛が明けた昨年、本来奉納する神社ではなく、集会所で“披露”することになった。踊りに集まった関係者たちの思いとは。

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土井さんプロフィール

土井 恵治

(一社)土佐清水ジオパーク推進協議会
事務局長

この動画が公開される直前の8月のある日、全国でも珍しい横穴式の津波避難施設を見学する機会があり、初めて佐喜浜町を訪れた。今回の動画の素材となった太刀踊りの舞台は、津波避難施設がある都呂地区から南へ3kmほどの所にある尾崎地区だ。

太刀踊りは、高知県、愛媛県の各地で伝承されている芸能で、広くは花取踊りと言われる。ただ太刀の長さ、刀の先に花飾りをつける/つけない、太鼓の調子、振り付けといった踊りの様式については地区ごとに異なる。その目的も、地域の結束固めや五穀豊穣祈願、戦国時代の戦闘様式を模したものなどさまざまだ。ルーツが同じで変容していったのか、同時発生的なのかも判然としない。夏目漱石の「坊っちゃん」では、松山で催された日露戦争祝勝会の余興において、高知から来た30人が太刀を振るった踊りの勇壮さが語られている。明治時代には太刀踊りの遠征もあったのかと思わせる。

さて、今回の映像は「いずれはね踊り子もいなくなるでしょう」「1年でも長く存続できたらええんかな」という、中村晴文・尾崎太刀踊り保存会会長のセリフから始まる。あきらめというより達観した重い言葉だ。復活した踊りが、コロナ禍で練習を休むと途絶えてしまうという危機感が、コロナ感染のおそろしさに勝る。受け継いできたものを中断することなく続けようとする地域の方々の思いは、悲壮感すら漂う。

土佐清水ジオパークにおいても、花取踊り(太刀踊り)が下ノ加江、大岐、浦尻、貝ノ川などで伝えられている。尾崎地区と同様、一時途絶えたものを復活させた地域もある。人口減少によって30代40代の青年壮年の割合が少ない。担い手の問題は、農林水産業や地場産業だけでなく、地域の自然や文化を持続可能な形で伝えていこうとするジオパーク活動に、重くのしかかる。

この映像は、単に伝承文化を記録として残すだけのものではない。熱意だけでは済まない伝承の難しさや深刻さなど、担い手の複雑な思いが表され、伝承につきまとう問題が提起されている。この点において、映像そのものがジオパーク活動の中で重要な意味、価値を持っている。

※太刀踊りの概観、土佐清水での状況は「新土佐清水市史」(令和6年3月発行)を参考

土佐清水市貝ノ川の花取踊り(太刀踊り) 出典 新土佐清水市史
土佐清水市貝ノ川の花取踊り(太刀踊り) 出典 新土佐清水市史

柳井さんプロフィール

柳井 剛

室戸市 生涯学習課
文化財調査員

1962年を最後に一度は途絶えてしまった尾崎太刀踊り。2002年に保存会が立ち上がり復活した。それから20年たった現在も、週に一度の練習を続けている。コロナ禍でさえ、地区内外の踊り子で続けてきた。「今のおんちゃんら(保存会会長ら)が、おらんなったら、もうたぶんないなると思う」 「まだおるやないか」「おれらがおらんなるゆうたら、まだ30年かかるぞ」。中堅と年長者の間で、酒を飲み交わしながらそんな話をしている。冗談とも本気ともとれる会話だ。

映像を観終わったあと、45年前を思い出した。当時の私は中学2年生。地元高岡の神祭に、太刀踊りの踊り子として参加することになり練習を重ねていた。10月のある日、おとなり三津地区の秋祭りを、自転車で見に行った。そこで初めて、本番の太刀踊りのパフォーマンスをみた。踊っていたのは旧室戸東中学校(三津・高岡・椎名が学区)の同級生と先輩。太刀や竹棒がぶつかり合うたびに、装飾の色紙が千切れて舞う。踊り手の感情が伝わってくる。体重をかけて床を踏みこむ音。乾いた拍子木の響き。高岡とは異なる派手な振り付け。正直、「自分たちは負けてる」と思った。地元に帰り、太刀踊りを指導してくれていた青年団のおんちゃんとそのことを話した。おんちゃんによれば「昔、室戸で太刀踊りが広まったさい、振付師は東の地区から順番に振り付けを伝授していった。それで高岡はネタ切れになってしまったんじゃないか」

佐喜浜町尾崎の太刀踊りは、室戸市内の太刀踊りの元祖といわれる。初めて太刀踊りの奉納をみた当時の感動を胸に、映像では見られなかった5幕10種すべての奉納を、この目で見てみたい。

高岡太刀踊り(2019年)
高岡太刀踊り(2019年)

#07 鯨舟の唄

 鯨舟の唄は、江戸初期から明治にかけてこの地域で鯨漁を担った「浮津組」の宴会で唄われていた。捕鯨業は村の盛衰に関わり、漁夫たちの意気を鼓舞するため様々な祝宴が催された。銃殺捕鯨の台頭で室戸の捕鯨は衰退するが、祭の奉納を通じて今日まで唄い継がれてきた。人口減少に伴い日本各地の伝統行事が岐路に立たされている。2020年にコロナ禍へ突入すると、多くの祭りが自粛へと追い込まれた。4年ぶりに地域がにぎわうなか、唄う当事者たちは何を思うのか。それぞれの世代が抱える思いにカメラを向けた。

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櫻井さんプロフィール

櫻井 敬人

太地町歴史資料室学芸員
ニューベッドフォード捕鯨博物館顧問学芸員

捕鯨を通じて室戸と歴史的に関係が深い太地には鯨踊りが伝わっている。それは昭和45年5月に県指定文化財になったが、そのときに踊りの継承において重要な出来事があった。文化財指定からわずか二ヶ月後に、太地の踊り手たちが大阪万博の「日本のまつり」に招聘されたのだ。

その舞台のプロデューサーを務めた宝塚歌劇団の演出家、渡辺武雄氏は、失われつつある日本の伝統芸能をアレンジした歌劇が現代人を魅了すると考え、8ミリカメラと録音機を持って昭和31年から全国を回っていた。昭和33年に太地を訪問したときにはまだ鯨踊りを覚えていた古老がおり、昭和7年撮影の16ミリ無声フィルムも残っていた。渡辺氏が再構成した太地の鯨踊りは雪組の「鯨」という演目となり、東京とアメリカでも上演された。

それから12年後に万博の舞台責任者となった渡辺氏は太地から踊り手を招き、鯨踊りを演出した。万博閉幕から12年後の朝日新聞による取材で、太地の脊古芳男町長は、渡辺氏がなければ現在の太地の鯨踊りはないと発言した。渡辺氏は以下のように述べている。「民俗芸能は生き物です。今では文化財などと呼ぶが、昔は生活する人々の喜びや慰めとして、生き、動き、次の世代に伝えられたはず。」

太地の鯨踊りは「綾踊り」とも呼ばれる。綾棒と呼ばれる筒を銛に見立てた捕鯨の所作が独特だが、綾棒を持って踊る「綾踊り」は全国に存在する。歌詞もまた、クジラが詠み込まれてはいるが、流行歌から取り込まれた文句があちこちに見られる。つまり太地の鯨踊りは変化を繰り返しながら伝えられ、消滅寸前のところを渡辺氏によって掘り起こされ、タカラヅカでアレンジされ、万博を機に太地の人々の手に戻ってきたのである。

無形文化財は、具体的には「わざ」を体得した個人または集団によって体現されるため博物館で保存するわけにもいかず、そのまま継承されるとも限らない。ただ集えば歌い踊らずにはいられないのが社会的生物たるヒトであり、歌や踊りが共同体としての結びつきを強める役割を果たしてきたのであれば、古くから伝わる歌や踊りは「生き、動き」ながら受け継がれていくのではないか、これからも人が集うならば。

太地の鯨踊り
太地の鯨踊り

杉尾さんプロフィール

杉尾 智子

室戸ジオパーク推進協議会
国際交流専門員

人口減少及び少子高齢化を背景とした後継者不足から、脈々と受け継がれてきた郷土文化が、日本の各地で消滅の危機に直面している。江戸初期から続く「鯨舟の唄」はまさに今その渦中にあり、この動画は、その時を迎える、迎えまいとする人々の交錯する想いを記録した、非常に貴重な映像である。

保存会の中でも年長世代の植田元会長は、生活を営むという現実の大変さを知っているからこそ、「生活に直接関係ないとなると、鯨舟の唄の方が先に切り捨てられてしまう」と語る。また、小中学校での保存会の懸命な伝承活動にも関わらず、入会希望の子どもが出てこないことに、同じく元会長の濱口さんの言葉や表情からは、寂しさや哀しさが伝わってくる。

では、子育て世代の平井前会長はというと、「この唄を絶対に残していこうという感覚ではない」と言う。しかし、子どもたちが40分という長い唄を練習することをめんどくさいと感じる気持ちを慮る一方で、一風変わった伝統文化を持つ地元への愛着や、40分という長い唄の練習だからこそ生まれる一体感を、子どもたちにも味あわせてあげたいと考えているようにも感じられる。

では、伝統文化の継承者として期待される中学生はどうだろうか。この動画の前半では、スマホゲームに夢中な中学生の指先から、「鯨舟の唄」の練習風景へと場面が移る。まさに現代と昔を往来しているかのようなシーンに、もしかしたら小・中学校期の子どもたちが伝統文化に触れる時は、こんなものなのかもしれないとも思う。

ただし、決して諦めの気持ちからではない。自身もそうであったように、きっと人が地元や文化の真の価値に気づくのは、人生の山も川もある程度経験したその先のことなのではないだろうか。今は無関心に見える子どもたちも、これから進学や就職を機に地元を出て、郷里から離れた場所で初めて、地元や「鯨舟の唄」の価値に気づき、その良さを次に繋げていきたいと考えるようになるのではないだろうか。

つまり、今、保存会の方々が蒔いている種は、いつの日か芽吹く可能性を秘めている。なぜなら、子どもたちが大人になった時に思い浮かべ嬉しく思う光景、心挫けそうな時に支えとなる故郷の景色は、決してスマホでゲームをした時ではないだろう。それは、子どもも大人も一緒になって「鯨舟の唄」を練習したあの雰囲気、あの唄に違いないと、私は思う。

柿崎さんプロフィール-01

柿崎 喜宏

室戸ジオパーク推進協議会
地質専門員

今回の動画は、鯨舟の唄の継承に関わる、浮津西町地区の様々な世代の群像を映している。浮津はかつて捕鯨で賑わった漁師町である。周辺にはそれを示すように、鯨ばえなどの地名も残る。土地が狭く、農産物の収穫も限られる室戸の人々は、クジラを含めた海の食糧に依存せざるを得なかった。クジラ一つ捕れば七浦潤う、という言葉がある。誰かがクジラを一頭仕留めたら、大勢の人々が食べていくことがでた。クジラを含む海の豊漁は、室戸の人々の切実な願いだった。

鯨舟の唄はクジラ漁をしていた浮津組の宴会で歌われた唄だという。伝統捕鯨が行われていた江戸時代、浮津の人々にとって、クジラが獲れた喜びはとても大きかったのだろう。しばらく食糧に困らず生きていける、という安心感もあったのだろう。そんな当時の人々の切ない願いや喜びを、鯨舟の唄は今の私たちに伝えている。

動画の冒頭では、一人の青年、平井辰樹さんが少年たちに鯨舟の唄を指導する様子が映る。彼は「ちょっと現実的には、今の状況じゃ『いずれは』 っていうところも考えますね」「どうやって残していくもんなのかが、わからん」と、鯨舟の唄の継承に不安を吐露する。

かつて浮津には伝統捕鯨を中心とした生活があり、文化があり、地域のコミュニティがあった。令和の現在は伝統捕鯨が消えて100年以上経った。日本は豊かな国となり、人々が食糧に困ることもない。一方、地方からは若い世代の流出が続き、伝統的なコミュニティの再生産と継承も困難になりつつある。100年以上前にリアルタイムで伝統捕鯨に従事していた人々と、現代に生きる私たちは時間も価値観も状況も遠く隔たってしまった。正直、現代の私たちが鯨舟の唄に込められた人々の切ない思いにそのまま感情移入することは難しいのかもしれない。これは時代の流れで仕方のないことなのだろうか。

平井さんは語る。「室戸って出ていく子の方が多いと思うき。なんかこう1年に1回でも帰ってこれる、なんかきっかけがみんなできたらいいなって」地域の仲間と鯨舟の唄を一緒に歌ったという思い出や絆は100年以上の昔も現代もそんなに変わっていないのではないだろうか。鯨舟の唄が浮津地区を巣立っていた子供達の集まる拠り所になればよいなと思う。

#06 室津郷の馬子唄

 2023年10月、室津郷の馬子唄が4年ぶりに奉納される。馬子唄は江戸期より室津八幡宮の神祭で奉納されてきた歌で、当所は祭りの行列に神馬がお供していたものが、後に馬子唄を合わせて奉納するようになった。馬子唄の歌いだしは10人のうち1人が音頭をとる。今年は前半の音頭を、前田一真さん(39)が初めてとることになった。指導する田所栄造さん(75)は馬子唄保存会の初代会長で、長年馬子唄に携わってきた。地域伝統の唄は、今どのように唄い継がれているのか。練習から当日までの様子を追った。

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田中さんプロフィール

田中 伶奈

高知大学 教育学部

私は小さい頃、よく神祭を見に行っていた。神祭では私の父親も馬子唄を唄っていたため、久しぶりに馬子唄を聴くと、どこか懐かしい気持ちになった。昔は身近なものだったのに、学校や自分のことで忙しくなると、自然と遠ざかってしまっていた。地域の伝統を継承するということ、そこには自分自身も次の世代へと繋いでいかなければならない立場になるというプレッシャーがある。それに加え、その地で住み続けるかどうか、学業や仕事との両立はできるか、考えることは山積みだ。私自身、伝統文化を継承しなければならないという気持ちはある。しかし、自分が伝統をつないでいくことができる自信はない。

そんな中、この動画で前田さんが馬子唄を始めた理由をきき、前田さんにとても共感した。前田さんは、地域のおんちゃんたちから馬子唄に誘われた時、仕事をしながら馬子唄を継承するという決断をなかなか下すことができないでいた。そこには、仕事で精一杯であって、両立ができるかどうか分からないという不安があったと思う。この点に私はとても共感した。前田さんや私だけではなく、多くの若者が、伝統文化の継承について考えるとき、同じようなことを感じるだろう。日々の暮らしと伝統文化を考えるとき、どうしても日々の暮らしを優先して考えてしまう。しかし、前田さんは馬子唄を始める決断をした。前田さん自身が、馬子唄に真剣に向き合って考え抜いた結果、この決断をしたことを私は本当に尊敬する。

前田さんは「ああいう場やないとおんちゃんらとの交流がない」と言っていた。伝統文化を通じて、地域の住民同士で交流が生まれる。伝統文化の継承は、ただ単に文化をつなぐだけではなく、人をもつないでいるのだと感じた。近所付き合いが薄れている今だからこそ、このような場は貴重であり、なくしてはいけない。日々の生活が忙しくなり、ついつい伝統文化から遠ざかってしまうが、疲れた時こそ地元へ帰り、伝統文化に触れてみるのもよいかもしれない。今、自分自身が伝統文化を継承することができなくても、自分が育った室津地区に伝統文化があるという記憶をつないでいこうと思う。

杉尾さんプロフィール

杉尾 智子

室戸ジオパーク推進協議会
国際交流専門員

一枚の紙に広がった「ハー」、「ヘー」という文字の連なり。一見シンプルな音から成る馬子唄だが、おんちゃんが「これはいわゆる楽譜だ」という紙を見ても、誰一人として唄うことはまずできない。それは、馬子唄が人から人、世代から世代へと口伝で受け継がれてきた、誇るべき室津地区の伝統文化だからである。

そんな馬子唄の継承に挑戦するのは、前田一真さん。「自分は気にするタイプ、ネガティブやき。」という前田さんが挑戦を決めた理由は様々だろうが、私が思うにその際たる思いはただ一つ、「地域の今を終わらせないため」ではなかっただろうか。

この動画には、「だんだん人がおらんなってきた」という室津地区(室戸市)に生きる青年の本音が見え隠れする。地域と一緒に生きていく大切さと同時に、昔から知っているおんちゃんとおばちゃんがいなくなるという残される者としての不安。この4月から地元室戸に帰ってきたばかりの40代の私は、このストーリーから、将来への戸惑いと失われていくものへの切なさを感じずにはいられない。

しかし、だからこそ、数年越しの誘いを受け、馬子唄に挑戦する前田さんの姿は、大きな希望として目に映る。唄のお師匠、田所栄造さんも、唄の練習中、前田さんに「ここがおんしはいかん。」と注意しながらも、どこか嬉しそうな表情を浮かべている。その柔らかい雰囲気に、きっと田所さんのお師匠も、そのまたお師匠も、皆が練習の様子をひょっこり見にきて、微笑んでいるのではないかと思う。

神祭での馬子唄の奉納当日、音を発する前の数秒間、前田さんは一体何を頭に思い浮かべたのか。前田さんの第一声に皆の声が重なる。二重にも三重にも四重にも重なり合い、前田さんが「人の声ってこんなになるがや」と感動したような「しびれる音」が生まれる。

今は、「自分はまだまだだ」と辛口の自己評価をする前田さんであるが、数年後、数十年後には、「いがりっぱなしの若さ」とおさらばして、「秋風と戯れる音」を奏でる。そんな唄声を、室津地区に届けてくれる姿が、今から目にうかぶようだ。馬子唄の練習と継承を通じて深めるものは、住民同士、そして世代間の絆なのだろう。今生きている者と、これまで室津地区に生きた人々、そして自然のスピリッツを繋ぐ馬子唄が、後世に受け継がれていくことを心から願う。

柿崎さんプロフィール-01

柿崎 喜宏

室戸ジオパーク推進協議会
地質専門員

今回の主人公は室津の郷地区に住む一人の青年、前田一真さん。市内の工場に勤めつつ、地区の馬子唄保存会に参加している。彼は会に参加するまでの葛藤をこう話す。
「仕事がすごく忙しくて神祭どころではなかった。」
正直、これが子育て・働き盛り世代の本音だろう。地域づきあいや伝統芸能の継承など考える余地もなく、自分の仕事と家族のことで精一杯のはずである。しかし、こうも話す。
「馬子唄は胸に響く。自分が歌う馬子唄はおんちゃんらと全然違う。」
「(会に)行ってよかった。行かなかったら、ここまでおんちゃんらと仲良くなれなかったもん。ああいう場がないと、おんちゃんらとの交流がない。」
彼は会の先輩(おんちゃん)達をリスペクトしつつ、馬子唄を通じておんちゃん達とのつながりを喜ぶ気持ちを語る。

動画は馬子唄の練習 (+酒づきあい) の様子を映す。そこに映るのは、おんちゃん達と彼を含む若い後輩たちが語り合い、一緒に馬子唄を練習する様子だ。
そして動画には、彼の子を可愛がる、おんちゃん達の様子も映る。彼の言葉を借りれば、この子も「家族みたいなおんちゃんとおばちゃん」に囲まれ、これから地域の中で育つのだろう。この動画は、馬子唄という伝統芸能だけではなく、地域のコミュニティが次世代へ継承されていく様子を描く。

しかし、おんちゃんの一人は嘆く。
「(会から)人がおらんなくなった。どんどん人がおらんなくなる。」
室戸市は少子高齢化が猛烈なスピードで進行している。馬子唄保存会は前田さんを含む若い世代が参加していることで、現在進行形で継承ができている幸運な例だ。私が話に聞くだけでも、市内でこのような継承ができなくなっている(できなくなった)地区は他にいくつかある。

私が勤めるジオパークの目標のひとつに「大地の記憶を後世に残す」というものがある。「大地の記憶」は必ずしも地層や岩石、地形に残るものではない。大地と共に生活してきた人々の中にこそ「大地の記憶」が残る。記録は文字や映像など何らかのメディアの形に残せるかもしれない。しかし、人々の「営み」「想い」といった生(なま)の記憶を残すのはとても難しい。室津郷の馬子唄、その地域コミュニティの継承に、ジオパークがあることで何か助けとなれることを願っている。

#04 ぼくはインドネシア人

 日本の第一次産業が、多くの外国人技能実習生によって支えられていることの認知が広まりつつある。高知伝統のカツオ一本釣り漁も例外ではない。毎年約50人のインドネシア人漁業実習生が、高知のカツオ一本釣り漁のために来日する。来日した実習生たちは、まず室戸市に滞在して日本語や漁業を学ぶ。2カ月間の研修を終えると、実習生たちは県内各地のカツオ船に配属され、船上での生活が始まる。
 市川理沙さん(45)は2019年よりこの研修の日本語指導に携わってきた。出港後、1年のほとんどを洋上で過ごす彼らの素顔を知る、数少ない存在だ。日本語教育を通じて実習生たちと接し続けてきた市川さんが、社会から存在が見えづらくなってしまっていることで彼らが抱える問題と向き合う姿を追った。

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杉尾さんプロフィール

杉尾 智子

高知大学大学院
地域協働学専攻

インドネシアの漁業実習生たちが、私たち日本人、そして日本に、どのような思いを寄せているか、皆さんはご存じだろうか。私は、高知大学の大学院生として高知県漁業について研究を進める中で、市川さんを通じて多くの実習生と出会った。そこで触れた、実習生の日本や日本人に対する思いをほんの一部紹介する。

・ほとんどの実習生が、勤勉で規律正しい日本人や日本社会に、尊敬の念を抱いてやってきていること。
・日本人の規律正しさを見習い、自らがルールを守る自律した人になりたいと願っていること。
・日本のことをもっとよく知りたいと思っていること。
・何より、日本の人と仲良くなりたいと思っていること。

彼らの多くは、「親に楽をさせてあげたい。兄弟を学校に通わせたい。」という家庭の事情を抱えている。しかし彼らが日本を選ぶ理由は「出稼ぎ」目的だけではない。日本、そして日本人に憧れを抱き、ここ高知まで来ていることを、私も初めて知った。

市川さんは、日本人代表として、このような実習生の思いを真っ先に受け取っている一人である。と同時に、彼らの真っ直ぐな気持ちが「片思い」で終わってしまっている現状に、誰よりもどかしさを感じているように思う。そのもどかしさの分もだろうか。市川さんは、実習生と関わることのできる約2ヶ月間、出し惜しみすることなく、全ての力と愛情を注いでいる。ただ日本語を教えるだけではない。常に実習生のこれからの厳しい船上生活を想定し、彼らが船上で日本人と良好な関係を築くにはどうしたらいいか、そのための術を一つでも与えられないかと、日々試行錯誤している。

例えば、「わからない」時に「わからない」と正直に伝える。間違ったことをしたときに自ら告白する。これらは日本では当たり前の行動規範であり、そうしなければ信用を失うこともあるだろう。しかし、日本人とは異なる文化的背景や価値観を持つ人にとって、ましてや異国の地で初めて生活する若者にとっては、とてつもなく勇気のいることだ。とはいえ、「わからない」と言わずにいたらどうなるか?今後乗り込む漁船で、彼らが他の船員から信頼を得ることは不可能だろう。市川さんは、彼らに来る現実を見据え、「安全無事」を切に願いながら、一時間一時間、彼らとひたむきに向き合っている。小さな喜びと落胆を孤独に抱えて。

高知県は宮崎県と並びいち早く漁業分野での技能実習生の受け入れを開始し、現在までの約30年間で、実に約1,500人の技能実習生が活躍している。高知のソウルフードである鰹やマグロが今も変わらず食卓に並ぶのは、インドネシアの実習生と、彼らを支える市川さんのような存在があってこそ。しかしこの現状を、ほとんどの県民は知らない(私も数年前まではそうであった)。

しかし今後、鰹を食すたびに、県民誰もが彼らの存在を当たり前に感じるようになったらどうだろう。実習生の日本での生活が、どれほど喜びに溢れたものになることだろうか。そして、市川さんをはじめとする受け入れ従事者の方々の努力が、どれほど報われることだろうか。

この動画メッセージは、私も含め、実習生と一見遠いところにいる私たちに向けられたものだ。道ゆく人が挨拶してくれただけでも喜んでくれる、そんな彼らの気持ちに応えられる地元民・日本人でありたいと願う。

村瀬さんプロフィール

村瀬 佐保

高知新聞 記者

外国人実習生が高知に来て、一番最初に戸惑うのは土佐弁だという。「いかんぞね」「せられん」―。母国で学んできた日本語とは全く違うので無理もない。市川さんは仕事で役に立つ土佐弁も授業で教えている。市川さんに誘われ、私も地元民として彼らの前でお話したことがある。「生きた日本語に触れるだけでなく、高知にいろんな仲間がいることを知ってほしい」と市川さんは言う。

というのも実習生は研修を終えるとほぼ船上生活。地元の人と交流する機会は少ない。市川さんが動画で言及しているのは2020年冬の土佐市での出来事だ。当時、雪が降り、母国の友人にこの景色を見せたいと思った実習生がスマホを手に通学中の小学生に声をかけた。「あなたのお名前は?」「僕はインドネシア人」。本来なら温かいやりとりで終わったはずが、見知らぬ外国人の言動に児童が動揺。警察が動く騒動に発展した。実習生は不審者扱いに傷ついた。騒動を知った市川さんは彼に「あなたは何も悪くない」と何度も伝えた。

誰も悪くない不幸な出来事。しかし、彼らがなぜ高知で暮らしているのか、子供たちも知る必要があるのではないか。関係者の尽力で騒動の起きた小学校では「外国人実習生の素顔を知ろう」という授業が行われた。実習生が日本語で自分の言葉で自分の仕事を語った。「みんなが食べてるカツオを釣るのが僕の仕事。日本の若者は船に乗らなくなったから」。子どもたちは外国の若者が人手不足の農業・漁業を支え、給食の食材も彼らなしで手に入らない実態を学んだ。

帰国後も「日本に関わる仕事がしたい」と夢を語る実習生は多い。市川さんによると帰国した実習生は年1回、ジャワ島に集まるという。そこで開かれるのは「KOCHI」と冠した手作りの音楽フェス。異国で高知の思い出を大切にしている仲間がいる。それは家族のように温かく迎え入れてくれた高知の人々のおかげだろう。

ミッチェルプロフィール

ミッチェル・モンタリオン

室戸市教育委員会
ALT(外国語指導助手)

海外から室戸市に移り住んだ者として言えるのは、母国語で話せなくなる瞬間は、自身のアイデンティティを失う瞬間でもあるということだ。母国語のように自分を表現することができなくなって、周りの人たちとのコミュニケーションもとりづらくなる。冗談を言ったり、家族について話したり、以前のように他の人と関係を築くこともできなくなる。とても寂しい。映像でインドネシアから室戸に来る若者たちは、日本が好きで、より良い生活を望んでここにいる。しかし、言語という大切なツール抜きでは、日本の生活の本当の価値を享受することはできない。

市川さんの日本語の授業を受けることで、彼らは日本でより良い生活を送ることができる。市川さんは、彼らが周りの人々と関係をつくるために必要なツールを与えているのだ。そして、自身のアイデンティティを取り戻す力を与えている。語学学習は、単に自分の名前や出身地を言えるようになるためだけのものではない。他者から一人の個人として見られ、聞かれて、扱われたいという望みを満たすものだ。また市川さんは、彼らをコミュニティに迎え入れ、彼らの成功を願う日本人がここにいることも伝えている。室戸に住む全ての外国人が日本語を通じて自分を表現し、コミュニティの一員となっていくことを願う。

As someone who has moved from my home country to Muroto, I can confidently say that the moment that you lose your language, when you can no longer speak your mother tongue, is the moment that you lose your identity as well. You can no longer express yourself like you could back home because you lack the ability to reach out to the people around you. You can no longer tell jokes, talk about your family, or connect with others like you once did. It’s incredibly lonely. The young men coming to Muroto from Indonesia are here because they love Japan and want to build a better life. But without this vital tool of language, they are forever locked out of the true value that this Japanese life can offer.

The incredible work that Mrs. Ichikawa does sets these young men up for a lifetime of success here in Japan. She is giving them the tools that they need to connect with people around them. Furthermore, she is providing them with the ability to find their identities again. Language learning is more than just being able to say your name and where you’re from. It fulfills the desire to be seen, heard, and treated as an individual. Mrs. Ichikawa’s work shows these men that there are compassionate Japanese people here that want to welcome them into their community and see them succeed. It’s my hope that all foreigners living in Muroto can use the Japanese language to express themselves and become a part of our community.

中村さんプロフィール1-01

中村 昭史

室戸ジオパーク推進協議会
地理専門員

はっきり言って今回の映像にコメントするのは気が進まなかった。室戸に来て2年半ほど経ったが、インドネシアからの技能実習生のことはごくたまに見かける程度としか思っていなかったし、インドネシア以外からも室戸に来て働いていることに気づいていなかった。まさに存在が見えていなかった。だから、何かわかっている風に、彼ら・彼女らや市川さんについて語るのは不誠実だと感じられたためだ。また実習生という一方で問題を抱えた制度を考えると、どうしても暗い話になってしまうのも気が進まない理由だ。なので的外れな話になってしまうかもしれないが、わずかな経験から少しだけ明るい面を考えていこうと思う。

以前、大学の非常勤講師として地理を教えていたことがあり、アジア圏からの留学生が多数受講していた。有名でない私立大学ではよくある光景だ。日本人と留学生が半々の講義で、成績をつけるのには大変苦労したのだが、留学生に出身地の文化や抱えている問題など話してもらい、内容としては有意義だったんじゃないかと思っている。ある時、一人のネパールからの留学生で、講義を気に入ってくれたのか、教室外でもよく質問に来たり雑談したりしてくる熱心な学生がいた。雑談の中で彼に「卒業したらどうするのか」と尋ねた時があった。「日本に住んでネパール料理の店を出したい」と彼は言っていた。

それから3年ほど経って、彼のことはすっかり忘れてしまっていたけれど、一枚の葉書が届いて、彼がネパール料理の店を開業したことを知った。ほんの数ヶ月交流があった程度の私を覚えていてくれたことも嬉しかったが、何より夢を実現してくれたことが嬉しかった。外国籍でありながら、開業まで漕ぎつけるには相当な苦労があったはずだ。近年、留学生も労働力として見られており、彼も学業のかたわら料理店で働いて夢を叶えたのだった。

市川さんは、職業訓練中の実習生と関わっていて、彼らの抱える困難についてより身近に感じられる立場にいらっしゃる。また実習生が根本的に苦労する言語に関わっていらっしゃる。それだけに実習生が夢を叶えていく姿を見ての喜びは、私とは比較にならないほどだろう。こうした喜びこそ、日本語教師という難しい職を続けられる原動力となっているのではないだろうか。またユスリルさんが「日本語の教師になりたい」という時、市川さんや他の日本人との交流を通して得られた「喜び」があったからだとも思う。

最近、映像を見てNIHONGO室戸へ新しいボランティアが入ったことを聞いた。また、知り合いが、実は実習生の日本語教育に一部関わっていたことを知った。まだまだ知らないけれど同じように関わっている人もおられるだろう。実習生の苦労と喜びに、共に寄り添おうとする地域の人がいることは、とても明るい兆しだ。

柿崎さんプロフィール-01

柿崎 喜宏

室戸ジオパーク推進協議会
地質専門員

自分語りで恐縮だが、私はジオパークに赴任するまで、研究の世界で働いていた。その間、とても不思議な縁で、インドネシアの青年と密に交流する機会に何度か恵まれた。私の彼らに対する印象はひとことで言うと「純朴で真面目、人懐っこい好青年」である。彼らは研究の世界で働き、インドネシアで奨学金を獲得した人たちだった。もちろんインドネシア社会の中でもひとにぎりのエリートたちだろう。それを差し引いても、彼らの根底には、純朴でひたむきなものを強く感じた。

動画「ぼくはインドネシア人」では語り手の市川さんから日本語を学ぶインドネシア人漁業実習生の姿が描かれている。彼らは言葉の通じない異国の海で、長期間陸地から離れて漁船で働かなければならない。それでもそれぞれ事情を抱え、彼らは日本の社会に飛び込んできた。市川さんはそんな彼らが日本の社会やコミュニティーに順応できるよう、さまざまな協力をしている。懸命に日本語を学ぶ彼らの横顔に、彼らの雪ではしゃぐ姿に、私はやはり「純朴で真面目、人懐っこい好青年」という印象を受けた。

-そんな彼らが、児童に声をかけて不審者扱いされた。市川さんのおっしゃる通り、これは誰も悪くないと思う。私は自分たちとは異なる存在を警戒する「偏見」はヒトの本能の一つだと考える。そして周囲の人々と仲良くなりたいという思いも、ヒトの本能だと考える。だからこの出来事は悲しいすれ違いではあっても、誰にも過失はないと思う。「東南アジア風の男性」と不審者情報を出した人々も、児童に声をかけたインドネシア人実習生も。

私はさまざまな人や物事を知ることが偏見を乗り越える方法のひとつだと考える。この動画を通して、高知にいるインドネシア人実習生や市川さんの取り組みが多くの人に知っていただければ、彼らへの偏見も和らぐのではないか。偏見の先にある「純朴さ、真面目さ、人懐っこさ」で彼らが高知の人々にひろく受け入れられることを願っている。

翼さんプロフィール-01

小笠原 翼

室戸ジオパーク推進協議会
国際交流専門員

今回の市川さんを「主人公」として映したMuroto Voiceは、これまでの3本とはどこか違う感じがしました。その「どこか違う」という感じがなぜ湧いていくるのか、すぐにはわからず、2回、3回とゆっくりと観ました。回数を重ねて観るうちに気づいたのが、今回の動画では、取材対象として表現される客体とその視点が、複数あるという点です。これまでMuroto Voiceに登場した川田さん、西河さん、青木さんは、彼らの経験や考えについて彼らの言葉で語っています。今回、市川さんはご自身の経験と考えについて語る場面があるとともに、市川さんを通してインドネシアの漁業実習生を主とする、室戸で日本語を学ぶ外国人の経験、考えも語られています。途中ユスリルさんのインタビュー動画も挟まれていましたが、彼は日本語でインタビューに答えています。わたしは第二言語として英語を話しますが、自分の母語/母国語以外の言葉で自分の考えを話すときには、どこかに訳しきれていないものが残る気がしています。そうした観点から考えるとき、この動画を通して室戸で生活するインドネシア漁業実習生の文脈を、わたしはどこまで理解できるだろうと感じたのが、「何かが違う」という感覚として最初に与えられたのだと思います(さらに言うならこの映像は、撮影・編集を担当している遠枝さんの視点を通して、わたしたちに届けられています)。

この動画を見終えたあと、もしかするといくらかの人々は、この動画で表現されているインドネシア実習生らについて、「わたしたちが守ってあげなければならない弱い立場にある人々」と認識するかもしれません。しかしそうした認識は危険です。このような認識は、「わたしたち」と「彼ら」という二項対立を生んでしまう可能性があります。一度こういう認識を持ってしまうと、「彼ら」の位置に置かれた方々の真の声は、「わたしたち」の耳に一切聞こえなくなります。インドネシア実習生も、その他の室戸に住む外国人も、室戸の社会を構成する対等なメンバーです。市川さんが終盤におっしゃっていたように、「わたしたち」を構成する室戸の社会のメンバーの中には、この動画に登場したすべての外国人が含まれています。

室戸で生活していると、「室戸は室戸の人らぁだけでまわっていきゆう」とつい思いがちです。同級生は保育園から高校までずっと一緒。社会に出た後でも、「同級生のお母さん」とか、「小さい時に遊んでもらっていたおんちゃん」と一緒に働いていたりします。こういう環境でずっと生活していると、そういう経験を共有していない移住者の方を「よそもん」といつまで経っても呼び続けるような、狭いコミュニティができあがります。室戸がそういう性質を特に強く持つ町だということに、ジオパークの専門員として働き出してから気づく機会が多くありました。ジオパークは地域と一緒に活動を推進していくという特徴を持つので、各コミュニティでいろんな人と会って、いろんな話をして、いろんなおもしろいことを企画します。その「いろんな人」の中には「生粋の室戸もん」もいれば、いわゆる「よそもん」もいます。ジオパーク的な考えとしては、両方の立場の方々と一緒になって何かコトを起こしていくことが大切です。個人的には「よそもん」と表現される人々の目に、室戸がどううつっているかを知ることが、室戸で本当のイノベーションを起こすための、最初の一歩だと感じています。「よそのもんに何がわかるがぁな」という態度は、この町を確実に滅ぼします。

よく見ると実は多様な文脈に属すメンバーで構成されている室戸。すべてを包括して「わたしたち」と認識するとき、それは「室戸のやり方に合わせる」というような同化を強制するものではありません。それは多様な立場の人が、この町に一緒に住んでいて、この町をつくっているというシンプルな理解です。そのためには、インドネシア実習生や、夏のあがりの時期に自転車ででかけるマグロの遠洋漁業に従事する外国人乗組員と知り合う機会があれば、気軽に「やっほー」と話しかけてみる軽さがあればいいんじゃないかと思います。移住者の方々に対してもそう。まずは「こんにちは」から。「どこからきたの、なんできたの、結婚しているの、子どもはいるの」みたいな詮索じゃなくて、「こんにちは、あったかくなってきましたね」みたいな、そういう軽い感じでいいと思います。その人の属性じゃなくて、その人とわたしの考えを交換できるような会話から始められる軽さ、大事だと思います。

#03 伝統的町並みの存続

 日本の家屋の平均寿命は30年と言われる。人口減少で空き家が増加するなか、新築物件は次々と建てられ、大量の建築ゴミが廃棄され続けている。一方、高知県室戸市には明治・大正期より住み続けられてきた家々が立ち並ぶ地区がある。国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている「吉良川の町並み」だ。しかし家屋を修復する大工や左官の数は年々減少している。進む人口減少で空き家となり、手入れがされず修復不能となる家も増えてきた。
 この町並みが重伝建に選定されたのは25年前だ。選定の前年に住民団体、吉良川町並み保存会が発足した。青木準吉(76)さんは12年前より理事長を務める。一人の大工、そして伝建地区住民の代表として、町並みの存続に長年奔走してきた青木さんが抱える思いとは。

Comments

大津さんプロフィール

大津 璃音

高知県立大学 社会福祉学部1年
※大学の実習で室戸市を訪問し映像を視聴

吉良川の町並みを守るために活動されている青木さんは、空き家問題や少子高齢化に伴う後継者不足の問題を抱えていた。実習中バスの中から見た室戸の町にもポツポツと空き家らしき家があった。私は社会福祉学部の学生として様々な講義で空き家問題や少子高齢化について学んできたことから、社会福祉の専門職として吉良川のような地域に何ができるのかを考えた。

映像から、吉良川の伝統的な建物は、再利用できる自然に優しい材料や作り方などの工夫がなされていることを知った。現代的な建物と比べ、脆かったり頻繁に修理が必要であったりといった点もあるが、私はそれこそが魅力であると考える。なぜならこのような、人が手をかけなければならない部分を地域の人々が協力して行うことで深いコミュニティが築かれると考えるためである。そこから、祭などの文化が継承されていき、地域の絆はより強いものになっていくのではないだろうか。このことから私は、吉良川の町並みが地域を創り守っているのだと考える。それ故に今後も守っていくべきものであると感じた。しかし、現実は厳しい。少ない若者は都市部へ県外へと流れていき、住民の多くは高齢者である。この現状に社会福祉の専門職として何ができるだろうかと考えた。

まずは地域の人々が吉良川の魅力を知ることだ。私は映像を見て、吉良川の魅力は何と言っても建物に含まれた様々な工夫とそこにある温かい人々と文化だと思った。しかし、実際に住む人々は意外とそれに気付かないことがある。そのため、第三者から魅力を伝え、気付いてもらい誇りを持ってもらうことが重要であると考える。そして、そういった魅力を外に出していくことが必要であると考える。地域外の人々にもっと知ってもらい、興味を持ってもらうことで、若者が吉良川に訪れるきっかけとなるかもしれない。しかし、若者が訪れるだけでなく、そこに留まってもらうことが必要である。そのためには若者や外から訪れた人が地域独自の文化や風習に馴染みやすい環境を作っていかなければならないと考える。そこで専門職が地域の人の意見や価値観を尊重しながら、共にそのような環境を作っていくことが重要であると考えた。

無縁社会という言葉が生まれたり、SNSなどのインターネットが発達したりしている現代社会では、人と人との関わりが次第に減少し、孤独を感じる人々が増加している。このような社会の中で吉良川のようなコミュニティは貴重であり、心に豊かさをもたらしてくれると感じる。したがって、地域を守ることは自分自身を守ることにも繋がると考える。最後に、今回私は映像を見て社会福祉の専門職として何ができるかを考えたが、専門職や地域の人々だけでなく、現代を生きる全ての人が、自分はどのような未来を生きたいか、そのために何をすべきかということを考えていかなければならないと改めて感じた。

鶴和さんプロフィール

鶴和 楓奈

高知県立大学 文化学部1年
※大学の実習で室戸市を訪問し映像を視聴

私は吉良川町で生まれ育った。都会に行きたいと県外に出ていく友達を見送りながら、この町に残りたいと思った。過疎化や少子高齢化が進み、私の好きだったあの頃の賑わいは失われつつあった。私は、神祭で光り輝く御田八幡宮や、雛行列で賑わう町並みを見るのが好きだった。小学校のフィールドワークで町並みを見学し歴史を学んだとき、日頃なんとなく通ってた道の建物を、大切に守り続けて来た人がいることを知った。

青木さんを始め大工のみなさん、地域の方々は町並みの外観を壊さないように尽力されてきた。 現在の建築物の木材や資材の廃棄がSDGsや環境に関わっていることがわかった。備長炭の繁栄と共に先人の手によって建築され、白壁や水切り瓦の建物といしぐろなどにより形成された吉良川の町並みは重要伝統的建造物群保存地区である。大工さんの技術と吉良川を守りたいという思いで守り継がれてきたこの吉良川の町並みを守っていくためには、子供たちに地元を守りたいと思ってもらうしかない。吉良川町は、そのための取り組みとして、ひな祭り行列やお茶席、授業でのフィールドワークや神祭への参加などに尽力してきた。私もそういった活動によって、吉良川の魅力を感じることが出来た。しかし、新型コロナウイルスの影響で神祭は昨年まで中止、少子化により子どもたちのひな祭り行列の開催が危うくなるなどの問題が発生している。

伝統的な建造物が並ぶ町並みや古くから伝承されてきた神祭は守り続けなければならない文化である。私には当然、青木さんのような建物を修理し、守っていく技術など無い。しかし、吉良川にあの頃の活気を取り戻して欲しいという気持ちと、そのためにできることはたくさんあると感じる。「吉良川の神祭を守りたい。」そう言ってこの大学に入学した。私が卒業する頃に、吉良川の活気は戻っているのだろうか。そのためにできることは何でも尽力したい。

中村さんプロフィール1-01

中村 昭史

室戸ジオパーク推進協議会
地理専門員

アメリカの建築家カール・エレファンテが言うように、「最もグリーンな建物は、すでに建築済みの建物」だ。いくらエネルギー効率を高めた最新住宅といっても、建設時に出る二酸化炭素を相殺するのに現代の技術では数十年かかる。青木さんの活動のように、既存の建物を「修繕して使う」というのは、代替品のための二酸化炭素も排出せず、新たな資源の使用もずっと少なくて済む。気候変動への対策として非常に有効な手段だ。

そして修繕して使い続ける期間が長ければ長いほど、それだけ環境に与える負荷も少なくなる。青木さんらが守る100年以上続く吉良川の伝統的建造物群は、その歴史的な価値だけでなく、脱炭素についての具体的な取り組みが求められている2020年代の現在においても、象徴的な価値を持っている。また、軒をそろえた街並み、水切り瓦、左瓦・右瓦、いしぐろなど台風への防御策を備えた建物は、今後増加することが予測されている気候災害への事前の備えとしても有効だ。

こうした気候変動に対する伝統的な町並みの価値は、それが「生きられる建物」でないと意味がない。そこに人が居て、住みかとしたり、生業の場としたり、くつろぎの空間にしたりしながら、すでにある建物を修繕して使い続けることで意味を持つ。台風から守るべき人がいなければ防御も必要ない。青木さんの言葉に比べれば、ここでいう気候変動対策としての意味はだいぶ即物的だけれども、やはり「そこに建物があっても人がおらんかったら意味がない」のは同じだ。

それだけに、住み続けられる町であること、住み続けたい町であることが、やはり課題として大きい。高齢者に限らず幅広い世代が住み続けたいと思うには、ハード面・ソフト面を含め、ある程度の多様性を受け入れる素地が必要となる。だからと言って都市のようになる必要は全くない。神祭や伝統的行事、地域の産業・文化と結びつきながら、歴史を積み上げたゆっくりとした時の流れを感じることができる、そうした生活が吉良川にはあるからだ。そこに魅力を感じる人は必ずいるだろう。だからこそ吉良川の魅力を支えてきた青木さんらの活動が、どんな形であれ継続されることを願っている。

翼さんプロフィール-01

小笠原 翼

室戸ジオパーク推進協議会
国際交流専門員

青木さんと初めて仕事で会ったのは、2011年。もう10年以上前のことです。青木さんが理事を務めるNPO法人吉良川町並み保存会は、室戸ジオパーク推進協議会の理事でもあるので、これまでずっと密に連携していろんな事業を一緒にやってきました。

保存会のメンバーと話すなかで、「吉良川の町のことは、吉良川の人間でまわしていく」という意識がとても強い町だなと、10年前はよく感じていました。それは青木さんが動画の中で語っていた、祭りと吉良川の町の関係からも感じ取れると思います。室戸ではよく、吉良川は「保守的な町」と言われます。わたしもやはりその印象が強いです。保存会では吉良川の町並みガイドも実施していますが、そのガイドも「吉良川の人がやらないかんやろ」という不文律がありました。ただ、日本中にあるあらゆる地方の町と同じく、そうは言ってもいられない状況が目の前に迫ってもいました。「担い手不足」です。祭りも、町の運営も、いろんな場面でそれを担う人の数が年々少なくなっていきます。

町がそうなっていくとき、2通りの考え方をする人がいると、地域の人たちと仕事をして思うことがあります。1つは、「それでもこれまでのやり方を変えず、わたしたちだけでこの町をどうにかしていく」と、現状維持を選ぼうとする人。もう1つは「新しいやり方で、この町を守っていくほかない。いろんな考えと人を受け入れていこう」とする人。青木さんたちは、後者に属する人たちだとわたしは思っています。

吉良川って伝統的な儀礼や例祭以外にも、イベントが多い町だということをご存知ですか?「吉良川町並みふるさと市」、「吉良川の町並み飛脚レース」、「吉良川の町家雛祭り」などがあります。これは保存会や地元公民館等が連携して、企画・実施しているイベントです。「まずは吉良川を外の人に知ってもらわんと、そのためになんとかせんと」という思いから「新しいやり方」を模索した結果、実施されるようになったイベントだと言えます。特にふるさと市は年に何度か、特に大きな祭りがない時期に不定期に開催されている小さな手作りのお祭りで、地域で採れた野菜・手打ちそば・ちらし寿司の販売、餅つきアクティビティなど盛りだくさんの内容です。2013年に始まり、いろんな人を巻き込んで今でも続いています。吉良川の町並みガイドも、今は吉良川町以外からの受講者を募集し、吉良川出身ではないガイドの方も徐々にですが増えてきています。

こういう新しい流れが始まるとき、青木さんから「こんなことやろうと思いゆうけんど、手伝うてくれんか」となんとなく電話がかかってきます。「よその人もそろそろ受け入れていかんと、回っていかんなると思いゆう」と初めて聞かされたときは、内心本当に驚いたことを覚えています。「吉良川の町を守ために、変わろうとしゆう」という驚きです。すっごく嬉しくて、ワクワクした気持ちになったことを覚えています。

もちろん「あんまりよその人に来てもうてもなぁ・・・」という声も、実はまだまだぽつぽつと聞こえてきたりもします。でも実はわたしはその気持ち、ちょっとわかったりします。このまま何もしなければ、人はますますいなくなって、町そのものがなくなってしまうかもしれないのに、それでも「あの時の室戸」と表現すべきような情景が頭の片隅にあって、それがなくなるかもしれないのが寂しくて怖い、「変わってほしくない」という気持ちが湧き上がってきます。その気持ちを克服するのって、なかなか難しいように感じています。なぜならそれは、わたしたちのアイデンティティにも関わるものだからです。(「あの時の室戸」が実際にどのようなものか、それが果たして実際にあったのか、ということは重要ではなく、人々の意識の中にそれが「なんとなく」情景として浮かんでいるという点で、克服が難しいということです。興味がある方は、ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』なんかを読んでみたらおもしろいかも)。青木さんたちは、こういう気持ちと常に闘いながら、常に変化するほうを少しずつ選んできたんだと、この10年一緒に仕事をしてきて感じています。青木さんたちの年齢で、意識して変化するほうを選んでいることに、本当にいつも感服して、尊敬していて、自慢したくなるんです。「ほんまに吉良川の人はすごいがやき!」とよく言ってる気がします。

青木さんは今76歳。動画にもあったように、保存会の理事長を退任する意思を会で伝えています。ここ数年はよく「耳も目も聞こえんなってきて、自分に自信が持てんなってきたがよ」と冗談半分、でも半分は真剣に言われることがありました。その度に「なにいいゆうがでー!あと20年はがんばってもらわんとー!」とごまかして笑っていました。「変わらないでほしい」「ずっとそこにいてほしい」と無責任に思ってしまうんです。「いつまでもおったらいかんわ。やっぱり世代交代していかんと」と、笑顔で言っていた青木さん。「今の室戸」をつくり、必死に支えつづけてきた青木さんの世代を、ほんとならもうとっくに引退させてあげないといけなかったのかもしれません。わたしたち30代・40代が、青木さんたちの動きをどう引き継いでつなげていくのかについて、「おんしら何しゆうがあで」と、あの笑顔で言われている気持ちになりました。わたしたちは青木さんのように、「吉良川にどうなってほしいか」という問いに、すぐにはっきりとシンプルに答えられるかな。「まずはそこからや」と気持ちになると同時に、「だからお願いやきもうちょっとだけ一緒に色々しよう」という思いです。

柿崎さんプロフィール-01

柿崎 喜宏

室戸ジオパーク推進協議会
地質専門員

映像を観て感じたのは、「吉良川の町並みを残すことは建物を保存することではなく、そこに住む人々とコミュニティを残すことではないか」ということだ。青木さんは日本家屋の大工であり、町並みの家屋にさまざまな知識と経験を持っている。青木さんによれば、町並みの多くの土地は地主の所有であり、住人の判断で家を立て替えられなかった。また、支払いの慣習や祭の負担金があり、新しい人が入ってきづらかった。結果、町並みが残ったという。町並みは吉良川独特のコミュニティによって開発から守られたことになる。

現代に生きる私たちは、進学や就職のために、故郷以外の地域に移住することが多くなった。どの地域でも人の出入は激しくなり、コミュニティの中での人同士のつながりは失われつつある。さらに室戸市は過疎化が進む地域である。吉良川も例外ではない。青木さんは、住人がいなくなり、空家になるとシロアリ被害が大きくなると話す。人を減らしてコミュニティを希薄にする過疎化が、町並みの存続を危うくしている。

現代の技術は、安価で耐久年数の長い住宅を普及させた。一方、町並みのような伝統的な日本家屋は以前ほど建てられなくなった。現代の技術で作られた住宅は伝統的な日本家屋よりは頑丈で、シロアリにも喰われにくいだろう。しかし青木さんは、新しい住宅は再生不可能な資材で建てられており、最後は埋め立て処分しかできない。それでいいのか?と疑問を投げかける。町並みの伝統的な家屋はほぼすべて土に還る素材で建てられていた。現代の新しい住宅よりずっと脆いものだったかもしれないが、地域のコミュニティによって守られていた。皮肉なことに、「現代」という時代は耐久年数の長い住宅を建てることはできても、町並みの家屋を守ってきたコミュニティを守ることができていない。

青木さんがこれまでの数十年間で目撃した吉良川のまちなみの移り変わりは、現代社会が抱える矛盾を炙り出している。私たちは一度立ち止まって、何を守るのか、何を未来に残すのかを考えるべきなのかもしれない。

#02 地元で生きる -農とゴミと石仏-

 西河誠司さん(61)は、資源ごみ回収業者社長と農家の2つの顔を持つ。 高校を卒業後、高知市で就職。しかし時間に追われる毎日に限界を感じ、地元に戻って農家を継ぐことに決めた。
 ところが、「田舎へ帰ったらゆっくりできる」という思惑に反して、次第に多忙な日々へと後戻りしていく。そうした中、数年前より地域の巡礼文化の遺産の保全に取り組めた。年々あらゆるものが無くなっていく地元の、それでも無くならないものは何なのか。伝承を通じて、地域の誇りと向き合う西河さんの姿を追った。

Comments

翼さんプロフィール-01

小笠原 翼

室戸ジオパーク推進協議会
国際交流専門員

西河さんに会って、いろんな話をしたり一緒に活動をしていると、「ヒーローみたいな人だな」とふいに思う時がある。動画で紹介されている通り、農業をし、リサイクルセンターで働き、山の整備をし、地域文化を継承するために走り回っている。動画には出てこなかったけれど、彼はフルマラソンも走る。好奇心に満ち溢れていて、その好奇心が発露する方向に走り出していく体力もものすごいものがある。

西河さんはわたしの両親と同世代。でも彼には夢がある。やりたいことがたくさんあって、そして実際にやりたいことのために自分自身で動き、周りを巻き込んでいっている。わたしも「巻き込まれている」と感じることが多々ある。見切り発車で、事後報告で、「前持って言うてきてくれんと困るって言いゆうやろ!」と思わず怒ってしまう時もあるけれど、いつも「ごめんごめん。やりたいと思い立って、もう決めてきた」と笑って謝られる。

わたしたち室戸ジオパークと西河さんは、動画でも紹介された佐喜浜の山間部にある八十八体の石仏を巡る「佐喜浜ミニ八十八ケ所ハイキング」をガイドルートとして整備するプロジェクトをきっかけに、密に関わるようになった。安政の時代、今から160年ほど前に佐喜浜の山間部に設置された八十八体の石仏は、その当時の地域信仰を現す貴重な有形及び無形の文化遺産である。その管理は代々地域の常会(町内会のようなもの)が担当し、年に一度の入山と参拝を実施してきた。しかし常会メンバーの高齢化が進み、年に一度の入山が難しくなっていて、「石仏を山からおろそうか」という案まで出ていた。西河さんはそんな中「おもしろいもんがあるき、一緒に山に登って見に行こう。これをツアーにしていろんな人に見てもらいたいと思いゆう」と、声をかけてきてくれた。2018年の11月に初めて一緒に山に入ってからは、西河さんは超特急で山道整備をし、ツアー実施までそんなに時間はかからなかったように思う。「やりたい、実現したい」という西河さんの気持ちの強さが、ジオパークを始め、いろんな人を巻き込んでいった。「佐喜浜ミニ八十八ケ所ハイキング」は現在も人気のプログラムで、定期的に開催している。

西河さんは、室戸で「楽しんで」暮らすための方法を知っている。佐喜浜の町を過去賑わせていた、たくさんの遊び場や映画館は、今はもうなくなってしまった。「ほとんど何もないような状態。何も残らんか…」と動画の中で呟くように言っていたが、88体の石仏はまだ残っていて、「これらは無くならないね」と力強く自分自身に言い聞かせるように語っていた。西河さんは、石仏を単なる「モノ」として捉えていない。その時代、佐喜浜の人がこの場所でどう生きていたかを反映するものとして、地域文化と信仰を記録する象徴のように捉えている。西河さんが「無くならない」と信じて、残そうとするものは石仏にまつわるそうした地域の歴史、文化、それを紡いできた自然環境なんだろうと思う。西河さんは室戸の価値がどこにあるのかをわかっているんだろう。

そして西河さんはそれを残すために、自分のやりたい方法で動き出す。その時、西河さんは深く考えない。「とりあえずやってみる」という姿勢であらゆることに挑戦し、ちょっとやそっとのことでやめたりしない。「やりたい」と思い、周囲にそれを伝え、次の瞬間には動いている。細かいことは後から考えるというスタイルで動く。動くことなしに、何かが形になることはない。彼の室戸に帰ってきてからの生き方は、今の室戸に必要な考え方と態度だといつも、いつも思う。「空振り三振で延長戦…」と冗談混じりに言う西河さんの笑顔に、希望を与えられる。本当にヒーローみたいな人だ。

中村さんプロフィール1-01

中村 昭史

室戸ジオパーク推進協議会
地理専門員

SDGsや地球環境問題というと、とても大きな課題であって「私一人が何かやっても成果などあげられない」とつい思ってしまいがちだ(私もよく思う)。でも、西河さんのように軽やかに楽しげにいろいろなことに挑戦している姿を見ると、SDGsを達成するために必要な属人的な面、すなわち「その人にできること・その人だからできること」に注目することが大事だと再確認させられる。

西河さんは映像で捉えているほかにもっと多面的に活躍していらっしゃるし、私もその全貌は把握していないので的外れな人物評になってしまうかもしれないが、やはり西河さんはドン・キホーテ的な人物だと思う。思索を深めるけど行動までいかないハムレットではなく、時に夢想的で失敗することもあるけど挑戦し続けるドン・キホーテ。私も含めハムレット的な人が多い昨今、西河さんのような人はほんとに貴重な存在だ。

西河さんの活動の一端を考えると、資源ごみの回収はまさにリサイクルを支える重要な仕事であるし、布マルチ直播栽培でのコメづくりは、農薬を使わないため窒素やリンの環境中への排出を抑える農法である。地域経済の面からいうと、リサイクルの会社を継業し、そのままでは不耕作地になっていたかもしれない田畑を引き継ぎ、そうした農地の一角でマコモダケを栽培している。地元産業の海洋深層水を使ったシイタケやキクラゲ栽培は、うまくブランド化できれば両者に利が出るだろう。どの事業も西河さんなりの一工夫があり、SDGs達成に必要な要素がちりばめられている。

新四国八十八カ所の整備とツアー化は、西河さんの最もドンキホーテ的な活動の一つかもしれない。佐喜浜郷土史に描かれた歴史を頼りに、地域を巡り新しいものを発見する。それだけでなく、失われた石仏を探し出し、後世の人もその体験ができるように保全する。同じように郷土に愛着を持ち歴史を大事に思う人もいるだろうけれど、やはり西河さんでなければできなかった活動だと思う。

西河さんは逆転満塁ホームランを打ちたいようだけど、すでに塁は埋まっているし、短打でも、スクイズでも点は狙える気がする。思いつきだけど、「西河さんと〇〇を一緒にやるツアー」など人物の魅力をもっと売り出す企画はどうだろうか?うまくいったことも失敗談も含めて伝えてもらい、参加者には「その人にできること・その人だからできること」を探してもらう。属人的な魅力に溢れた西河さんであれば可能じゃないかと思う。蕎麦も打てるし。

柿崎さんプロフィール-01

柿崎 喜宏

室戸ジオパーク推進協議会
地質専門員

-故郷に骨を埋める。百年前まではそれが当たり前だった。子供は成人してからも故郷に残り、そこで新しい家庭をつくり、子供を育てる…どの地方でもそれが当たり前であり、そうして地方のコミュニティは世代を繋いできた。現代は職業選択の自由があり、進学や就職のために、若い人が故郷を離れて都会に向かうことが多くなった。「家」の存続よりも個々の人生が優先される時代となった。必ずしも人が故郷に骨を埋めることはなくなった。

語り手は若くして「ちょっと都会の」高知に出て仕事をしていた。しかし、時間に追われる生活に嫌気がさし、田舎に帰ったらゆっくりできる気がして、父の他界をきっかけに地元の佐喜浜に戻ってきたとのこと。今でいうUターンであるが、妻子がいる状態で、過疎化がすすむ故郷に戻るのはとても勇気のある決断だったと思う。それを後押ししたのは彼の中にある強い郷土愛だったのだろう。語り手がいう「室戸の中でも佐喜浜のほうが優れている気がして、ほかの地域に対抗意識がある」というのはじつに微笑ましい郷土愛だと思う。

語り手は故郷に戻って仕事をする中で、「佐喜浜には1300年の歴史がある」「佐喜浜にもいいところがある」と故郷を再発見した。「後世に伝えるために自分はできることをやりたい」という思いはまさにジオパークの担い手にふさわしい。このような方々の力を借りて地域の魅力を発掘し、過去と未来を繋げていくのもジオパークの仕事である。彼のような人物が地元にいるということは、室戸も佐喜浜もまだまだ捨てたものじゃないな、と思った。

私自身も大学進学と同時に故郷を離れて20年以上たつ。もはや私が故郷に骨を埋めることはないかもしれない。若くして覚悟を持って故郷に戻った語り手の姿を見て、ちょっと胸が痛くなった。

千里さんプロフィール

徳増 千里

NPO法人佐喜浜元気プロジェクト

「20年後、この町は存続しているのか」
移住して6年、私が日々感じてきたことだ。ほぼシャッター街と化した商店街、日中、町で会う人の数は片手で足りる。統計上の人口は1,200人を超えていても、実際に暮らしているのは700人程度だろう。そのうちの60%以上が60代以上の超高齢過疎地域、それが室戸市佐喜浜町だ。東京で暮らしていた時には他人事だった「地域文化の消滅」、いや、「消滅集落」という言葉が現実のものとして、すぐそこに迫っている。多くの大人が子どもたちに、「ここにはなんちゃあないき、外(都会)に出ろ」という。子どもたちは、この地域が、人が、大好きだが、時期が来たらなんとなく「外」にでなければいけないのかな、と思っている。選択ではなく、必然として。

でも、西河さんは違う。佐喜浜の美しい自然と地域文化。一度、佐喜浜を出て、自分の生まれ育った地域への外からの目を持つからこそ、この風土がどれだけ尊いのかを、西河さんは知っている。それらを守りながらも、「なんちゃあないき、創らないかん」、西河さんからは、いつも「この町の未来を創るのは自分たち」という強い意志を感じる。自分に何ができるのか、今考えている挑戦がベストなのかとあれこれ考えて足踏みするよりも、まずは自分がやってみたいことをやってみる。他人と違うことを恐れて自分の想いに蓋をするようなことは決してしない。本人は「空振り三振」と言っているが、つまずいたり、失敗したりすることで、不器用ながらも、周りを巻き込みながら、着実に次のアクションにつなげていく。人生も地域の可能性も、目標を掲げ、それに向かって日々着実に歩むことでその先が拓けていく。そう知っているから、西河さんはいつだって希望を見失わずに、今日よりも良い明日を思い描いて挑戦を続けられるのだろう。

佐喜浜の未来を照らすお天道さまである子どもたちはみんな、西河さんのことを「佐喜浜のヒーロー」「スーパーマン」と呼ぶ。この子どもたちが、コツコツと出塁した西河さんを、満塁ホームランでホームに帰還させてくれる日が来るのはそう遠くないと、私はひそかに楽しみにしている。

前田さんプロフィール

前田 柚奈

室戸高校 1年

私は西河さんと同じ佐喜浜町に生まれ育ちました。佐喜浜は一言でいうと田舎。山、川、海、空と自然で溢れていて、動物や虫もたくさんいます。文章にすると素っ気なく簡単に聞こえますが、田舎暮らしの奥深さや環境のありがたさを感じることができます。しかし、これらは全てが自然にできているのではなく、人の手が入り美しく保たれているのだと思います。自然と人間はお互いに補い合って生活しているのです。

西河さんは自ら山に出向き、山の下に落ちてしまった石仏たちを険しい道を駆け上りながら元の位置に戻し、自然や歴史を保護する活動をしています。西河さんのような人がいることで佐喜浜の環境や文化が守られていることを知り、日頃から感謝の心を忘れてはならないなと思いました。

また、動画では西河さんの人生観について語られていました。私は西河さんの人生を評価することはできませんが、確かに言えることは、西河さんは誰よりもチャレンジ精神に溢れていて自分の人生を存分に楽しんでいるということです。自分のためだけでなく他の誰かのためにも時間を費やし仕事をするのは、想像以上に過酷で大変なことだと思います。西河さんはそれを率先して行っています。農業だけでなく、リサイクルセンターの仕事、石仏の管理まで沢山の活動をこなしているのはとても立派で素晴らしいことだなと思いました。西河さんをここまで動かす力はどこからみなぎっているのでしょうか。不思議でたまりません。

私は小学生の頃に一度、西河さんにお布団農法を教わったことがあります。なぜ周りの人と違うことをしようとするのか私はとても疑問に思っていました。私にとって人と違うことをすることはとても勇気のいることで、人目を気にしてやめてしまうこともあります。しかし西河さんはお布団農法だけでなく、マコモダケや佐喜浜シイタケの栽培など次々と新たなことに挑戦しています。その姿を見て、私も何かしたいことがあったら、先にそのことをしてどうなるのかを悩むのではなく、すぐに実践してみようと思いました。すぐ行動に移すことでいろんなことを経験でき、失敗したら失敗したで学ぶものもあると思います。何事も経験と挑戦を怠らない人生にしたいです。

西河さんから学ぶことは非常に多く、たとえ色々な縛りがあったとしても、私も西河さんのように自分らしい人生を貫きたいと思いました。また、大好きな佐喜浜の魅力をたくさんの人に知ってもらいたいし、今度は私たちが自然や文化を守り佐喜浜を大切にしていきたいと思いました。

#01 土佐備長炭の里

 備長炭を国内一生産する高知県のなかでも、室戸市は最大の生産地となっている。第1回はこの地の炭焼き職人、川田勇さん(42)を追った。
 生まれ育った室戸で生活し続けることに葛藤を抱えながらも、10年前に地元の伝統産業に携わることを決意。日々、原木を求めて山に入り、職人仲間と切磋琢磨してきた。独立し、自身の炭窯を持って9年経った今、地元に対する思いとは。

Comments

翼さんプロフィール-01

小笠原 翼

室戸ジオパーク推進協議会
国際交流専門員

この町に生まれ、育ち、住んでいる人なら一度は味わったことのある、なんとも表現し難い気持ちが痛いくらい伝わってくる。その気持ちを「不安」や「焦燥感」という言葉で表現する人もいるだろう。「室戸を出たい」「ここじゃないどこかに行きたい」「何かがしたい」「でも何ができるのか」という、漠然とした迫り来るような気持ちに折り合いをつけながら、室戸に生まれ生活するわたしたちは、毎日過ごしていると感じることがある。

炭焼きを始める前、30歳になったばかりの川田さんが感じたそうした気持ちは、彼の世代より下の年代であれば感じてきたものだろうと思う。マグロの遠洋漁業で栄えた室戸の町の面影はなく、町の中から色々なものが消えていき、祭りの規模は小さくなり、学校がなくなり、人口が半減した。現在「アラフォー」と呼ばれる世代の室戸生まれは、その成長に反比例するように衰退していく室戸の町の変遷を見せつけられながら、大人になった(わたしは川田さんより少しだけ年齢が下だが、同世代と言える範囲)。

コミュニティが小さいからこそ、「みんなが自分のことを知っている」という状況に閉塞感を覚える人も多いという。「いいことも悪いことも、全部広がる」と川田さんは言っていたが、それはもう古典の「室戸あるある」。そんな中で、川田さんたちは約10年前、新しいことを初めたのだ。

土佐備長炭産業に「若い」世代が参入しなんだか盛り上がっているようだ、というニュースは約10年前からよく話題にのぼるようなった。わたしは当時、高校卒業以来久しぶりに室戸に戻ってきて、ジオパークで働き始めたばかりだった。川田さんがアルバイトをしていた炭窯にお邪魔して、備長炭のできるまでを教えてもらい、窯出しや窯くべも経験させてもらった。室戸の伝統産業である土佐備長炭だが、わたしはその時に初めてそうした産業が室戸で行われていたことを知った。メディアに取り上げられる機会も多くなったし、わたしたちジオパークもさまざまな連携事業をさせてもらった。

そうすると聞こえてくるのが「批判の声」(といいつつ、その中に「建設的な批判」と言えるものはほぼない)。妬みや嫉妬の感情も混じりながら、色々な人が、色々なことを言う。川田さんは当時そうした声を「受け入れていた」とインタビューでおっしゃっているが、「それはしんどかっただろうな」と率直に思った。しかし真摯に仕事に向き合う中で、自分の中に軸ができ、揺らぐことがなくなっていったこともインタビューでは明かしてくれた。年月が経ち、自分のしていることを自分自身で認められるようになったのだろうか、と感じた。冒頭で触れた「不安」や「焦燥感」という言葉で表現できるような、あの独特の気持ちが少し和らいだということだと思う。

わたしはこの動画を10代や20代の子たちに見てほしいと思う。川田さん世代は「室戸がどんどん元気がなくなっていく姿」を見ながら大人になったが、10代?20代前半の子たちが生まれたとき(2000年代以降)にはすでに、「室戸は元気がなくなったその後・・・」という感じだったはずだ。事実、仕事で関わる若い世代の中には、自らの将来に希望を見出せず、自信を持てずにいる子たちがいる。「どうせ室戸やき」「室戸にはなんちゃあないき」と周りの大人たちが言っているのをずっと聞いて育っているので、どうやって室戸で生まれ育つことに価値を見出せばいいのかわからない、と打ち明けてくれた高校生OB・OGもいた。

その世代と川田さんは約20年の世代ギャップがあるが、川田さんがそうした「どうせ室戸やき」という気持ちをどう乗り越えたのかを、ぜひ若い世代の「今自信がなくてどうしたらいいかわからない」と感じている子たちに見てもらいたい。川田さんは室戸に残る選択をして、「大好き」と言える仕事に出会い、「最高の仲間」と言える人たちに出会えて、ご自身の軸を見つけられた。若い世代に対して、「川田さんのように室戸に残る選択をしてほしい」ということをこの動画を通して感じてほしいわけではない。

今暮らす場所が室戸であっても、大都会でも、日本でも外国でも、どこであっても、最後は自分自身であり、環境は自分自身で切り拓いていくものなんだということを感じてもらいたい。どの場所にいても、「何を見るか」「誰と何をするか」ということだけで、今いる世界は変わったりするし、その後人生もおもしろく変化していくことがある。川田さんは、生活する場所は室戸のまま変化しなかったが、「何をするか」、「誰の言葉を聞くか」という点が変化したことで、楽しくて愛おしいと思える日々を生きているんだろうな、と動画の後半を見ながら誇らしく、嬉しくなった。

中村さんプロフィール1-01

中村 昭史

室戸ジオパーク推進協議会
地理専門員

室戸市の林野率は約87%。製炭業を含む林業に従事する人口割合は約2%となっている。映像の中で川田さんが言うように山のために「木は切っちゃらないかん」けれども、広大な山に分け入り、適した樹齢の木を選び切り出し、道をつけ運搬し、製品として加工するといった作業をこなす人は年々減少している。こうして手つかずの山林が年々増加している状況だ。特にスギやヒノキの人工林は、植林して50年ほどで切り時を迎えるが、65年を過ぎても手つかずのままになっているところが多くなっている。これも川田さんが言うように、木材価格の低迷によるところが大きい。

製品にするための原木の質という点ばかりでなく、二酸化炭素を吸収してくれる森林の役割という点からも「切っちゃらないかん」。育ち盛りの若い木が最も二酸化炭素を吸収し、老齢になると吸収量が少なくなる。また放置された間伐材や腐敗した樹木からは二酸化炭素以上の温室効果ガスであるメタンが発生する。適齢期の木を切って処理し、若い木を植林・造林するなりして次代の森に更新していくことが必要だ。また針葉樹の林よりも、ウバメガシやカシなどの広葉樹の林は、薪や堆肥としての利用が減少してからは放置林が増えている。広葉樹の林に備長炭生産者の手が入り更新がなされることは、気候変動への対応策としても本当に重要なことだ。

炭の利用に関しても、気候変動対策として高い関心がもたれている。植物由来の材料を燃やして発生する炭素は、光合成によって植物が大気中から吸収した炭素であり、基本的に全体の炭素量を増やさない。さらに炭素の塊である炭として加工し、それを土壌改良剤として農地にすき込み、炭素を地中に貯留することができれば、大気中の炭素をマイナスにすることができる。純度の高い炭であれば、何世紀も安定して地中にとどまることになるため、結果として気候変動のスピードを和らげることにつながる。こうして世界でも日本でも、炭に着目した脱炭素に向けた取り組みが行われ始めている。(「バイオ炭(Biochar)」や「4パーミルイニシアチブ(4 per 1000 Initiative)」のキーワードで調べてみてください)

SDGsや気候変動に対するアクションの中には、もちろん本人が自覚してその活動に取り組んでいるものもあるだろうが、普段の活動や事業を続けていること自体、実質的にSDGsにつながっているものもある。今回の川田さんの場合は、炭焼きの仕事を通して、森林が再生産可能で循環的な資源であり、山や森を適切に管理しながら守っていくことの大切さを十分に意識されていると思う。そしてその仕事する誇りも十分に持っておられると感じる。

気候変動対策としては、川田さん達の取り組みには一つ大きな壁があると思う。それは製品を使用・消費する側の問題だ。なにより生産地から遠いところで使用するとなると、輸送段階で多くの二酸化炭素を排出することになりかねない。輸送段階で炭素排出量が低い手段を選択する、使用後の処理方法も含め全体としてカーボンオフセットに取り組む、消費者としてSDGsに積極的な飲食店を応援するなど対処方法はいくつかある。そしてできる限り地元での消費をすすめることも重要だ。川田さんら炭焼き職人さんの取り組みを「さらに良くする」ためには、生産者の仕事の意義を理解し、消費する側が応援・協力していく姿勢が不可欠だと思う。

柿崎さんプロフィール-01

柿崎 喜宏

室戸ジオパーク推進協議会
地理専門員

出店の係をした時に、実際に備長炭を使って調理をしたことがある。備長炭の燃え方はほかの炭とは大きく違った。何かこう、煙が出ずに、静かに、鋭く、火が燃え盛っているというか、食材にダイレクトに熱が伝わっている感じがした。この動画でも出てきた「遠赤外線効果」というのだろうか。備長炭の不思議な燃え方が私の備長炭に対する印象である。

?静かに、鋭く、燃え盛る。これは語り手の生き方にも共通しているのかもしれない。語り手はうっそうとした山に分け入り、備長炭に使えるウバメガシを探して、切り出す。切り出したウバメガシは炭窯まで運び出し、ウバメガシを何時間も蒸し焼きにして、製品として出荷する。どの段階も過酷な重労働であり、強い情熱と根気がないとできない仕事であろう。私なら、三日ももたずに逃げ出してしまうだろう…

炭は100年前までは私たちの身近にあり、人間が何千年と利用してきた燃料でもある。今ではガスが普及してほとんど一般家庭では使用されなくなったが、SDGsを考えた時に、果たしてガスを使用したままでよいのかと考える。ガスは何億年も前に海底に溜まった有機物が変成したもので、使ってしまえば二度と再生することはない。一方、備長炭の原料であるウバメガシは何十年もすれば再び生えてくる。完全ではないものの、部分的には再生可能な燃料なのだ。語り手が話したように「人の手が入っていない山では枯れた木や倒れた木が多い」ならば、持続可能な範囲で山の木々を伐採し、炭や燃料に利用するのも一つの手ではないか。

日本は島国であり、山国でもある。変動帯である日本列島はもともと平野が少なく、山が多い。昔から多くの日本人は山とともに生き、山の恵みを受けて過ごしてきた。しかし、現代の私たちは平野部の都会的な生活をよしとして、山とはすっかり縁遠くなってしまった。山を歩き、山とともに生き、山の自然と人々の生活を「備長炭」で取り結んでいる語り手のような生き方は、私たちも学ぶべき示唆を多く秘めている。

後藤くんプロフィール-01

後藤 拓歩

室戸高校 2年

手つかずになっている山を、炭焼きという職業で手を加える様子を見て、木を切ることはよくないことだと思っていたが、逆に手を加えないと山が荒れることに驚いた。?あと、ウバメガシを切っている山は全部自分の山から切っていると思っていたが、人から山を買い取る(※)ことにも驚いた。
地元である室戸でSDGsに取り組むことができることを知れたので自分にも何かできることはないかと考えて取り組んでいきたいと思った。
※正確には山の所有者から山に生えているウバメガシを買い取って伐採する。

柴嵜さんプロフィール1-01

柴嵜 双愛

室戸高校 2年

ものが作られるのにもたくさんの努力と準備が必要で、時には一生を捧げることもあり得ると私は思っています。高知県は国内一の備長炭の生産量を誇っていて、なかでも室戸市は土佐備長炭の約5割が生産されていることを知りました。

今回出演していた川田さんは30歳で新たな職を求めてスタートを切ろうとしていました。川田さんは「室戸から離れたかった」と言っていました。私は県外から来ましたが、正直、かつての川田さんと似た意見で、交通の面でも、人口の面でも、職業選択の豊富さでも、あまり大人になっても住んでいたくないなと思っていました。しかし、川田さんの動画を見たときに、あんなにこの場所から出たかったにもかかわらず、どうしてこの場所の仕事に就いたのか、不思議に思い、興味を持ちました。

動画を見ていくと、「今、自分が切っている木はもう(川田さんが)現役の時には切らない」という言葉が自分の中に刺さりました。木は手入れが大変で、虫などにやられないように木を早く切ったりしなければなりません。人口が少なく、市外・県外に出て行ってしまう人が多いので後継者不足などの問題があると思いますが、わずかな仲間とともに、一つの職として自分の仕事に誇りをもって働いていることが本当にすごいと思いました。

ここにいたくないと思っていた人が、今、この場所で職に就いている。動画を見て私は、自分たちのことをもっと知る、理解することが大事だと感じました。どんなに嫌いな人でも、良いところ・良い面があります。自分自身が気付いていないだけで、嫌いなところを表面だけ見てしまっているのだと思います。住んでいる場所も同じで、嫌だと思う理由は、良いところを見つけられていないからということもあると思います。「生まれた時から住んでいるから全部わかっている」とは限らないと思います。だから、まずどんなことでも知る・理解することができたら、川田さんのようにこの場所にいたくないと思っていた人も変わるのではないかと思いました。私もいろんなことを知っていこうと思います。