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ふるさとを愛し、心豊かでたくましく、生きる力を育む教育

むろとしきょういくいいんかい

室戸市教育委員会

Muroto City Board of Education

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0887-22-5141(学校教育課)
0887-22-5142(生涯学習課)

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室戸岬

最御崎寺(東寺)

 大同2年、唐から帰った大師は、この地を訪れて嵯峨天皇の勅願により伽藍を建立し、虚空蔵菩薩像を刻んで本尊とし室戸山、最御崎寺(ほつみさきじ)と号し、第24番の霊場に定められましたその後寺運は大いに栄え、嵯峨天皇を始め歴代天皇のご信仰も厚く、足利時代には土佐の安国寺に定められ、以後各武将の寄進により七堂伽藍も整う大寺院になりました。

中岡慎太郎像
 幕末、倒幕派の土佐藩の志士、安芸郡北川郷大庄屋の家に生まれる。武市瑞山の尊壤党に加わり、1862年五十人組に参加して出郷、以後諸藩の志士と交わる。1866年の薩長連合の成立には、坂本龍馬とともに人力さらに薩土盟約をあっせんして倒幕運動を進めた。1867年11月15日京都河原町の近江屋で坂本龍馬とともに刺客におそわれ、ともに落命した。
津呂王子宮

 津呂の氏神である。津呂は港ができ捕鯨を中心とした漁業が盛んになる近世に入って人家が増えてきた。それまでは人家のまばらな寂しいところであった。王子宮の社寺は二代藩主忠義が最蔵坊に津呂の港を掘ることを命じ、津呂権現の宮(王子宮)と屋敷を与え、津呂沖を往来する船の安全を祈願するように命じたものである。

室戸灯台

 四国の南東端に位置し、明治32年4月1日に完成しました。その後、昭和9年の室戸台風のため、灯台のレンズが破損し、修理を行い鉄造りの灯台はそのままで、ほぼ設置当時の状況で現在に続いています。光源は最初石油を使用していましたが、大正6年12月に電化されました。またこの灯台は無線方位信号所が併設されています。

御厨人窟

 空海が室戸崎に来て苦行修行を積んだ地。上の写真の左が御厨人窟で、右が神明窟である。御厨人窟には毒蛇が住んでおり、往来の人畜に危害を加えるので空海が加持力をもってこれを退出させたという。二つの窟を通称「みくろ洞」と呼んでいる。

目洗いの池
行水の池
ビシャゴ岩

 津呂の町におさごという漁師がいました。おさごは、このあたり一体で、比べもののない美人だったそうですその美しさはめっそうな評判になり、毎日あっちの村、こっちの村から若衆たちがおしかけてきたそうな。
おさご見物にあんまりたくさんの人たちがやってくるので、おさごは何をするにしても人の目を意識せずにはおられなかった。それでとうとう身も心も疲れ果ててしまった。(こんなに私がつらい目にあうのもみんな美しく生まれたせいだから、そうだ汚くしよう)
 こう思いついたおさごは、顔になべずみをぬり、わざと縞目もわからぬようなぼろの着物を身にまとうた。でも、こうしたおさごの苦心の変身も、おさごの美しさに魅せられた若衆達の心をそらす事はできなかった。あまりのうとましさに、おさごは、ある夜こっそり家をぬけだし岬へむかった。ここにはたくさんの大きな岩が海に向かってそそりたっているが、その一つ「びしゃご礁にあがると「これからは、私のように、つらい娘ができませんように」こう祈ると海の中に身をなげて死んだということである。(室戸市史 下巻より)

水掛地蔵
杉尾神社

三津、高岡の氏神であり、大国主命を祭神とする。

椎名の捕鯨山見跡

 山見の鼻は椎名川と飛鳥港の中間に位置し、椎名集落と飛鳥集落との分岐点にあたる。今もって「山見の鼻」と地区の人々に愛され語り継がれている。椎名山見は、寛永初年(1624)土佐古式捕鯨の発祥と共に築かれ、明治末期の古式捕鯨終焉まで営々とその役割を果たしてきた。平成4年に、「鯨の里づくり」委員会が位置確認をおこなった。その結果、およそ標高50mぐらいの場所に、広さはおよそ6・7坪ぐらい、割石で築き上げた風囲い・狼煙を上げた焚き火跡が確認できた。山見からの視野は相当の広がりをもっている。

日沖の大礁

 三津の岩屋から日沖港北にかけて、いわゆる日沖海岸は海底火山の活動を示す溶岩や、玄武岩質集塊岩がある。枕状溶岩は、海底火山の噴出物が水によって急激に冷却され、枕状に水中で形成されたものである。上部は丸く膨らみ下部は凹んで固まるものであるから、この大礁は上下が反転している。これは陸上部の岩が転がり落ち反転したものと考えられる。

滋賀丸遭難碑(日沖)
 滋賀丸は明治39年に建造された老朽船で、高知ー阪神の貨客輸送に当たっていた。19年5月30日午前4時、高知港を出、9時すぎ、三津椎名の境である日沖の沖1500メートルの所を航行中、敵潜水艦の魚雷攻撃を受けて、大きな爆音と水煙とともに、海中に没した。目撃者も多かったが、「船の向こうに大きな水柱がたちのぼり、それが消えた時には船の姿がなかった」という。乗員52人、乗客は約140人ぐらいだったというが、助かったのは40人ぐらいである。

滋賀丸撃沈生々しく(平成2年 高知新聞から)
「たまたま見つけた船。轟沈だった」「軍隊を乗せた船だと思った」「室戸沖に米潜水艦が出没していたのは日本軍は知っていたはず」、本紙の電話取材に対して元艦長は淡々と滋賀丸撃沈について語った。「滋賀丸」を沈めた時、同氏は31才の青年艦長。当時、戦果は強く焼き付いたに違いない。
 明快な記憶、しっかりとした口調。ギンバーさんは、被害者側からの突然の取材に戸惑いながらの、誠意をもって答えてくれた。
1944年(昭和19年)5月30日に沈めた船のことを覚えていますか。
 「覚えている。私は豊後水道で作戦行動をしていて、その日は紀伊水道に移動中だった。午前八時半、た またま一隻の船を見つけた。援護船はついていなかった。上空を、水上飛行機が飛んでいたように思う」
たまたま見つけた? 「そうだ。たまたまだ」
民間人を乗せた定期船ということは知っていたか。 「まったく知らなかった。定期航路があるという 情報もなかった。可能性として、軍隊を乗せていると思って撃った」
その船は「滋賀丸」と言うのだが、それを狙っていたわけではないわけだ。
 「そう。偶然そこに行ったら船が見えた。だから攻撃した。」
室戸沖には何回来たのか。
 「1942年、トリガー号に乗り込んでいるときに二回パトロールした」
42年頃にそんな近くまで来れたのか。
 「来れた。簡単だった」
日本軍はそのことを知っていたのだろうか。
 「もちろん、知っていたと思う」
撃沈の状況を聞かせてほしい。
 「午前八時半に当直が発見し、九時前に千五百メートルまで接近した。敵船(滋賀丸)の向こうに陸地が 見えた。」
陸地までの距離は?
 「約3.6キロほどだったと思う」
その位置から魚雷を?
 八秒間隔で三発発射した。自分の感じでは一発目が不発か途中で暴発し、二発目が命中、三発目は陸地に あたったように思う。
ずっと見ていたか。
 「そうだ。沈没まで、潜望鏡で私が確認した。船体中央に命中し、前の方から先に沈んだ。沈没まで5分 もかからなかった。まさに轟沈だ。」
滋賀丸は逃げようとしていたか。
 「いや。回避行動をとる間もなく命中した」
沈没後は?
 「すぐ逃げた。南西へ逃げて深く潜った。反撃はなかった。
 滋賀丸にのっていた多くの民間人が死んだが。・・・
 「民間人とは全然知らなかった。こいうことは二度と起こってはいけない。二度と繰り返してはいけない もう二度と不幸な時代が来ないように、私は祈る。」

平成2年8月13日の高知新聞より
滋賀丸を撃沈した米潜水艦は撃沈の日、作戦行動で豊後水道から紀伊水道に移動する途中であった。そこで滋賀丸に偶然、滋賀丸を発見、攻撃態勢に入った。米潜水鑑は半時間かけて滋賀丸に接近。約千四百メートルの距離から三発、魚雷を発射、そのうち一発が命中。滋賀丸は逃げる間もなく轟沈したが反撃はなかった。米潜水艦の船長によれば「軍隊をのせた船とばかりに思っていた」ということである。
日沖の港
善導寺のソテツ

 浄土宗鎮西派南山悟真院善導寺である。室戸岬港の山側西上町の上にあり、寛永3年(1626)建立し、それから善導寺と呼ばれるようになった。寺の上にソテツの群生地があり、その当時植えられてものか、または火災(文化12年=1815)後再建の時、植えられたと思われる。現室戸岬小学校玄関前のソテツは、昭和3、4年頃の改築時、ここから移植したものである。

夫婦岩
夫婦岩からの室戸岬
夫婦岩からの室戸岬
夫婦岩の下は絶好の釣りのポイント
夫婦岩の下は絶好の釣りのポイント
夫婦岩の下は絶好の釣りのポイント
夫婦岩の下は絶好の釣りのポイント

 海中から屹立する二つの岩柱、その景観は人目をひかずにはおかない。海底からはかって何メートルあるかはっきりしないが夫婦岩としては全国でも最大級のものである。岩質は砂岩で多年の風蝕作用によって蜂の巣構造の風紋が発達している。

野中兼山の碑(津呂)
風力発電所

 風速4・5m/秒から発電を行うことができ、風速の増加に伴って、最大300キロワットまで発電し、年間45万kwH(一般家庭約160戸分)の電気を発電することが出来ます。室戸岬では、台風による強い風が吹くので風車はこれに耐えるように設計されています。風力発電は季節や気象による風速の変化により発電能力が左右されるほか経済性や信頼性などの面で、本格的な実用化までには、まだ解決すべき課題も残されています。ただ、風力発電などの新エネルギーはクリーンで地球にやさしく、また資源の乏しいわが国にとっては将来の貴重なエネルギー資源の一つであることから実用化のための研究開発に積極的に取り組んでいます。(四国電力)

堀内輝重顕彰碑

 三津薬師寺入口に立つ大きな碑は、ブリ落網を開発した室戸岬町椎名の堀内輝重の顕彰碑であるとともに、その落網によって全国へ進出していった芸東漁民のモニュメントでもある。土佐式落網は堀内氏によって三津漁場へ大正9年に始めて敷設された。