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ふるさとを愛し、心豊かでたくましく、生きる力を育む教育

むろとしきょういくいいんかい

室戸市教育委員会

Muroto City Board of Education

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室戸

津照寺
津照寺
津照寺
津照寺
津照寺
津照寺
津照寺

 津照寺は室津港のすぐ近くにあり、地元では津寺と呼んでいます。室津港はかつては遠洋漁業の基地で、漁季の前後は漁船が碇泊し、活気にあふれていました。山の麓にある朱塗りの山門をくぐると、右手に大師堂、その後に信徒会館があり、急な125段の石段を登ったところに本堂、鐘楼が建っています。本堂からは室津港と、そこに連なるひろびろとした太平洋を一望することが出来ます。

一木(いちき)神社、一木権兵衛
一木(いちき)神社、一木権兵衛
一木(いちき)神社、一木権兵衛
一木(いちき)神社、一木権兵衛
一木(いちき)神社、一木権兵衛
一木(いちき)神社、一木権兵衛
一木(いちき)神社、一木権兵衛
一木(いちき)神社、一木権兵衛
一木(いちき)神社、一木権兵衛

 土佐藩の家臣、一木権兵衛は人夫173万人工費10万両を要して港の入口をふさぐ巨岩を除く工事に掛かり、命を海神に捧げることを誓ってやっと成功し、その翌日切腹して果てました。村人はその徳をたたえてこの社におまつりをしました。
 一木権兵衛についての伝承を裏付けるものとして「室戸港忠誠伝」がある。室津港の工事の途中、港口に険しい岩があって人力を寄せ付けない。斧岩、鮫岩、鬼牙碆の三岩があり、浪の間に間に出没し船が座礁して損害をうけた。この三岩を除かなければ、港が掘られても用をなさない。そこでいろいろな手をつくすけれどどうすることもできない日々が続いた。
 ある時、藩主が東寺へ参拝の途中、室戸普請をご覧になるためお通りになった。その時、家中の武士が一木氏をあざけっていった。「御苦労千万、数ある忠勤、しかし大きな池を掘られて、さてこの池には鯉や鮒をかわれたらよろしかろう。拙者は遠路だから見物には来られないだろうが」と。この言葉を聞き、一木氏、海神に祈って「この事業成れば犠牲となって命を捧げまつる」と誓った。そして自ら指図し、百姓どもに命じて岩を砕きにかかると前日とうってかわって岩は粉々に砕けた。そして砕けた岩から血が糸のように垂れ、あるいは飛び散り、あたり一帯は血の海となった。人々はこれをあやしみながらも七、八百人もが岩の吹き出す血に染まり、戦場にある思いをしながら岩を砕いた。以前に比べ砕きやすいことは言いようもなかった。
 これはただごとではないと人々はささやきあったが、中には義人が神に誓ったことをあとになって思いあわせたものがいたという。こうして無事三岩を取り除くことができたのである。その後、一木氏は事務整理をし、従者を集めて遺言をし、心静かに役宅にて自害を遂げた。それを聞いた人々は驚き入り、天下無双の義人であると称賛した。 (室戸市史 上巻より)

浮津八王子宮
浮津八王子宮
浮津八王子宮
浮津八王子宮
浮津八王子宮

 祭神は、椎名八王子宮と同じである。伝承では、昔奈良師の浜で光り輝くものがあり、里人がこれを弁当箱に入れて持ち帰り奈良師の奥に祀ったという。一木権兵衛が室津港を完成させた延宝年間(1673~81)までは浮津の人家は浮津西分から奈良師にかけてあった。港を造るにあたって、それらの家を港周辺へ移したので社寺が遠くなり元禄4年(1691年)に今の地へ移した。
 ここの秋の大祭には曳き船が出る。宵宮の日の朝から曳き台に乗せて飾られた「鯨船」と「曳き船」の二つが町内を回る。

室津神社
室津神社
室津神社
室津神社
室津神社
室津神社
室津神社
浮津城跡
浮津城跡
浮津城跡
 現在愛宕神社の境内となっており「城の平」と言われ、浮津から室津に通じる道は城越しという。室津城の出城(番城)である。城床山の室戸漁業無線局近くにも番城があった。原池の八幡宮、もと浮津宮原にあり永正15年(1518)城主惟宗右兵衛政長が、勧請建築したものである。宝物に越前康継銘の太刀と民俗芸能の馬子唄がある。
四十寺山
四十寺山
四十寺山
 古くは東寺の奥の院とも称され、海抜313mの名山で桜の名所でもある。頂上に寺堂があり三体の石仏がある。中央は十一面観世音菩薩像で左手に蓮華、右手には与願印を結んでいる。右側は地蔵菩薩像と称され右手に三叉鉾、左手には宝塔又は舎利塔を持っている。左側は薬師如来像で右手に宝剣、左手に薬壺を持っている。頂上の景観は抜群で、付近より貝の化石を産するほか室戸山権現と称し修行者の霊山でもある。
城床山
城床山
城床山
 城床山は室津城の出城(番城)として東を守り、西の守りは城越山(愛宕山)である。室津城主は室津内膳匠、通称室津半三郎、本名は名族の流れを汲む惟宗政長で永正年間(1504~1521)の頃であった。
 城床山に古来より一つの俚謡が伝えられている。
    夕日さす  朝日かがやく樹の下に
    小判千両  有明けの月
 惟宗は全盛時代に、いざ鎌倉というときの為に軍用金として城内にいづこかに、千両箱を埋めたということである。古来、この古城跡にまつわる千両箱の伝説は、誰彼なしに信じられていたようである。この謎の千両箱を探し当てようと、多くの人々が挑戦したが成功した者は、遂に居なかったと伝えられる。
鯨浜
鯨浜
鯨浜
 室津川河口から奈良師へかけての浜は古式捕鯨から銃殺捕鯨まで、鯨引き揚げ解体する鯨浜として、にぎわった所である。この浜で鯨が解体され、売られた。今もクジラバエと言われる岩があるし、銃殺捕鯨会社の名が丸三の浜として残されている。