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石灰頭司徳右衛門の碑 |
文化年間に徳島の人徳右衛門は、霊場巡拝の途中、南国稲生で、新しい石灰製法を教えた。後に阿波に帰ったが、国禁の石灰製法を他国にもらしたことをもって処罰される噂を耳にし再度下田にきたが逃れられなく落魄し羽根浦を通ったが、途中持病に苦しむところを、豪商柳屋の手代慶蔵に助けられ、その礼として石灰の製法の秘伝を詳しく教えて羽根に永住した。以来羽根と稲生は石灰業に縁ができて優秀な石灰頭司が輩出した。記念碑は鑑雄神社の境内にある。
明治11年東京で生まれ、三歳で帰郷し、羽根小学校卒業、高知市第一高等小学校を父死亡により中退(同級生に寺田寅彦がいる)し、津呂で父の酒造業をついだ、明治26年の津呂の大火で高知の入交商店に入り、17歳で炭鉱の支配人となり、実業家の道を進む。32歳の時、ブラジルに渡航、アメリカの貿易、海運業を視察し帰国する。第1次世界大戦の機を捉え、明治物産、山地汽船を設立、昭和12年極洋捕鯨株式会社を設立し、南氷洋捕鯨に出漁し、同社は日本屈指の水産会社になった。
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島村省吾 |
島村省吾は弘化6年11月羽根に生まれ、知泉寺の祖鑑和尚について学を修め、高知にて砲術を習い、15才で京都に上り王事に励み、さらに風雲に乗じて天誅組大和義挙に参画した。
天誅組参加者中最年少で伍長となったが、彦根藩本陣を夜襲したあと捕らえられ、元治元年2月16日処刑された。明治21年5月靖国神社に合祀せられ、7月に正五位を贈られた。なお、天誅組37名中18名が土佐藩の者という。
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羽根城跡 |
戦国時代、羽根の領主一円但馬守の城跡で、長宗我部地検帳に城の岸や城詰二塀三塀共十六代の記載がある。羽根には別に尾僧城と船場の西峰付近に古城の記録もある。